ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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今だから考える~福留孝介、社会人野球での3年間~

「よっしゃー!!」

 1995年のドラフト会議にて、近鉄・佐々木恭介監督の声が会場に轟いた。しかし7球団の抽選の末、この年の目玉である福留孝介(PL学園)の交渉権を獲得したにもかかわらず、その声にはどことなく虚しさが漂う。

 話題の超高校級スラッガーはドラゴンズ、もしくは巨人入りを熱望。それ以外は入団を拒否し、社会人入りする意向を表明していたのだ。

 翌日のスポーツ紙には、高校の先輩・清原和博がプロ入りを勧める見出しが踊り、逸材の動向は国民的関心事となった。近鉄も必死の説得を続けたが、18歳の意志が揺らぐことはない。

「初志貫徹」

 少年の拘りを思えば驚くことではない。特にドラゴンズは憧れの立浪和義が在籍している。願いが叶わないのであれば、別の道を選択するのは必然だった。

社会人デビューとアトランタ五輪

「僕は絶対に、ムダにしたくない。3年間でもっと凄くなった、と評価されるようになってみせる。」

 退路を断った男の決意は狂気をはらんでいた。だが、希望球団への道が絶たれたことへの恨みは感じられない。そこにあったのは、更なる高みを目指すという極めてシンプルな思考だった。

 進路選択の際、自身のレベルに対して身分不相応な場所に行ってしまうことは珍しくない。あまりにも無謀な挑戦をすることもあれば、その逆もしかり。ただ、門を叩いた名門・日本生命は絶好の環境だった。

 大卒中心のチームに同年代の選手はいない。「ミスター・アマチュア野球」こと杉浦正則を筆頭にトップ選手が揃うチームで、巨人入りした仁志敏久の穴埋めという高いハードルも課された。あとは実力で周りを驚かすのみだった。

 スター候補生に対する報道は過熱の一途を辿る。社会人野球の選手の入寮がスポーツ紙に大きく取り上げられたことは前代未聞のことだった。

 しかも、社会人入りが決まるとすぐに全日本候補に選出された。五輪イヤーにもかかわらず、アマチュアの精鋭部隊は、仁志らのプロ入りによって内野陣の再編が必要な危機的状況。走攻守三拍子揃う逸材は「ラストピース」として期待されたのだ。

 ルーキーイヤーの幕開けは、2月の日本代表の米国合宿だった。五輪メンバー入りがかかったサバイバルに福留は当然のように生き残る。高い能力にはMLBのスカウトも舌を巻いた。

 3月のプロ・アマ交流戦では、プロ野球選抜の指揮を執った野村克也監督が大絶賛。スイングスピードや、身体の強さはトップレベルと遜色なし。大舞台で日の丸を背負うことは必然だった。

 迎えた本番、福留はチーム最年少ながら全9試合にスタメン出場を果たす。遠くアトランタの空に描いた2本のアーチは、スーパースターの誕生を確信させた。決勝で世界最強軍団・キューバの底力に屈したが、銀メダルを獲得。主力選手として恥じない活躍を見せた。

次のステージを見据えて

 19歳でメダリストになろうとも、若者は次を見据えていた。喧騒の中過ごした1年目を終えると、自身の技術の見直しに没頭した。「都市対抗制覇」と「2度目のドラフト1位」、そしてプロ野球での活躍を見据えると余韻に浸ってはいられなかったのだ。

 足の上げ方、タイミングの取り方、体の回転……。より良いものを愚直に追い求めた。すぐに結果が出ないのは承知の上。プロのように毎日試合がない社会人野球という舞台は、福留に己と向き合う時間をもたらした。

 社会人における公式戦通算成績は、462打数170安打。放ったホームランは40本に達した。1997年のインターコンチネンタル杯にて、キューバの国際大会151連勝をストップする歴史的瞬間に立ち会うなど、世界の猛者と渡り合った。あのオマール・リナレスと接点を持ったのもこの時期だ。

 日本生命の選手としても、同年の都市対抗で優勝。当時18歳の少年を受け入れた会社への恩返しもできた。入社時点で「3年後」がはっきりしていたのは間違いない。だが、福留は社会人野球を単なる腰掛にはしなかった。

 置かれた境遇に真摯に向き合えたからこそできた、最高の形で「卒業」。1998年晩秋、憧れ続けた青いユニフォームに袖を通す時が来た。

世紀末という時代がもたらした必然

 プロ野球生活24年。渾身の一振りは凱歌をもたらし続けた。

「もし高卒でプロ入りしていたら……」

 未来永劫語られるifを問われた場合、筆者なら次のように答える。

「それなりの打者になっただろうが、球史に名を残す大打者になると断言する自信はない」

 社会人特有の一発勝負の連続は、後に待ち受ける数多の修羅場を潜り抜ける原動力になったことだろう。アテネ五輪や2度のWBC、そしてMLB挑戦においては、若くして日の丸を背負った経験が生きたにちがいない。

 誰にも真似できない3年間は、当時のドラフトで指名を受けた7球団では味わうことができただろうか。福留の野球人生はこの時代なくして成立しない。

 逆指名とFA制度が導入され、選手が海を渡ることも当たり前になり始めた1990年代は、野球選手の生き様が問われ始めた時代といえる。選択肢が増え、自らの意思が今まで以上に必要となった。

 周囲に振り回され、我を見失う選手も多い中、天才スラッガーは我が道を邁進した。アスリートとしての長寿を全うできたのも、妥協を許さぬ人生観あってこそ。パーソナリティも含め、激動の時代が生んだ不世出の傑物だった。

yamadennis (@yamadennis) / Twitter

 

参考文献

【新聞】

『スポーツニッポン』

1995年

12月9日5面

『日刊スポーツ』

1995年

12月6日3面

1996年

1月26日4面

3月22日1面

『中日スポーツ』

1996年

8月25日5面

8月29日4面

9月1日5面

【雑誌】

『GRAND SLAM』(小学館)

NO.6、NO7、NO.8、NO.9、NO.10、NO.11、NO.12

『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)

1995年

12月11日号

12月25日号

1996年

7月15日号

1998年

1月5・12日号

1999年

1月18日号

『プロ野球1990年代』(ベースボール・マガジン社)

【書籍】

横尾弘一『オリンピック 野球日本代表物語』(ダイヤモンド社)