ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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ファンをやめようと思った日

○3-1東京ヤクルト(バンテリンドーム:3回戦)

 火曜日のゲームは堪(こた)えた。そして萎えた。大野雄大の7回自責点0で負け投手、「グランドスラムか⁉︎」と身を乗り出して行方を追った一打がフェンス際でキャッチされたのを見た瞬間、私の中で何かがプチンと切れてしまったのである。

 低迷期のドラゴンズは定職にも就かず家でダラダラして過ごすヒモ男のようなチームだと思う。情深い彼女(ファン)は散々裏切られながらも、いつか必ずこの人はちゃんと自立してくれるはずだと信じ続けている。本当はこんなはずじゃないから。ちゃんとやる気になれば、この人はできる人だから。

 そんな風に待ち続けて早10年。ヒモ男もずっとどうしようもなかったわけじゃなく、自立に対して前向きになった時期も無いわけではなかった。そのたびに「ようやくここから新しい生活が始まるんだ」と心が軽やかになる瞬間もあったが、蓋を開けてみれば結局いつも通り。

 金なし、夢なし、意欲なしの典型的な “3なし” に期待する方が間違っていることは百も承知ながらも、惚れた弱みで突き放すことはできず、ずるずると関係を続けている。昔やってた『おもいッきり生電話』に相談したら、たぶん眉間に皺寄せたみのもんたに「あんたもあんただよ。どっかで見切りつけないとそのまま人生台無しなってもいいのかい」と偉そうに説教されることだろう。

 分かっている。そんな正論はいまさら言われなくても分かっているのだ。それでもやめられないから “愛” というのは厄介なのだ。もっとも近年はだいぶ “憎” が混じってきている気もするが。

 そうして勝手に育んできた “愛” が突如として冷めたのがおとといの試合だった。あとひと伸びでホームランだったのにーー。バンテリンじゃなければーー。あれ? 今年もこんな感じでストレスを溜めなきゃならないのか? 設置の気配すらないテラスに夢を馳せながら、虚しい現実と戦い続けなければならないのか? なんかもう、よくないか?

 単に打てずに負けるだけなら「打線は水物」という言い伝えにすがることもできるが、あわやスタンドインという打球があの忌々しいフェンスに阻まれるシーンはもう懲り懲りだ。なぜ球団はいつまで待っても重い腰を上げてくれないのか。あぁ、この男は永久にこうやって定職に就かず、就く気すらなく、こうして悶々とストレスを抱えながら時間だけが過ぎていくんだな。

 そんなある種のあきらめを感じた瞬間、今までにないほどはっきりと「ファンをやめる」という選択肢が心の中に浮かんできたのであった。

たとえツラいことがその何倍も多くても、この瞬間がたまらなく好きだからこそ、ドラゴンズの応援はやめられないのだ。

 ユニフォームも捨てようと思った。一番古いのは2004年の川上憲伸モデル。その後、デザイン刷新のたびに買っているので全部で10枚くらいあるが、ファンをやめるのだから持っていても仕方ない。

 今夜の先発は髙橋宏斗だという。WBCでの力投には感動した。だけどもう勝とうが負けようが、ファンじゃないのだから関係ない。

 20時半頃、たまたまチャンネルをザッピングしていたら野球がやっていた。無死二、三塁。ドラゴンズがピンチを迎えていた。リードは2点。マウンドには見慣れた背番号12……いやこれ心臓が飛び出るほどヤバい場面じゃねえか。まぁ、どうなろうが知ったこっちゃないけど。と思いつつ成り行きを眺めていると、なんと勇敢な背番号12はこの絶体絶命のピンチを凌ぎ切ったのである。

 打たれた瞬間、少しヒヤッとした鋭いライナーが右翼手のグラブに収まると、ベンチには派手にガッツポーズする髙橋の姿があった。えくぼを作り、ホッとしたような表情の田島慎二。よく抑えた。本当によく抑えた。2017年以降の彼が辿ってきた過酷な道のりを知ればこそ、この帰還は奇跡的と言う他なかろう。

 胸にこみあげる熱い想い。駆け出したくなるほどの衝動。そうだ、この瞬間を味わうために私は野球を見てきたのだ。たとえツラいことがその何倍も多くても、この瞬間がたまらなく好きだからこそ、ドラゴンズの応援はやめられないのだ。

 こうして原点に立ち返った私は、結局いつもの慣れ親しんだ場所へと戻っていった。うだつのあがらないダメな球団だが、もうここまできたら一生添い遂げるしかないのかもな……とぼんやりと思いながら。贔屓を作るというのは、こじらせ女子のダメ恋愛とよく似ているような気がした。