ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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ある日のドラゴンズ⑲竜のプリンス、7年目の初グランドスラム

 プロ野球の歴史は、記憶にも記録にも残らない「ある日」の積み重ねで出来ている。

 年間140試合のうち10年後も思い出せる試合は幾つあるだろうか。何の変哲もない日常はやがて記憶の彼方へと埋もれてゆく。

 しかし、忘れ去られた「ある日」もたまに引っ張り出してみれば案外懐かしかったり、楽しめるものである。今回紹介するのは1994年5月のある日の出来事。1994年といえばとにかく「10.8」しか語られないだけに、シーズン序盤を振り返るのは新鮮なものである。

1994年5月28日vs横浜(ナゴヤ球場)

「野村は3流ですよ」。立浪和義は、口癖のように横浜・野村弘樹をこう評してきた。もちろんPL学園同期ならではのジョークであることは誰もが承知しているが、少なからず負けん気から来る対抗心もあったのではないだろうか。

 プロ入り後はライバルチームの敵となった左腕に対し、立浪は92年までは通算打率.421(19打数8安打)とカモにしてきた。しかし野村が最多勝を獲得した93年は7打数1安打と封じ込まれ、得意だった “3流” は一転して苦手な相手となった。

 この夜も3打席目までは手玉にとられた。第2打席はスローカーブを空振り、第3打席は内角真っ直ぐを見逃し三振。前回(4月26日)の対戦から数えて6打席連続で音無しと、昨年に続いて苦手を引きずっているように思われた。

 そもそも野村どうこう以前に、5月の立浪は絶不調に陥っており、4月末に3割2分あった打率は、この日の3打席終了時点で2割6分8厘にまで下降していた。加えてパウエル 、ジェームズの両外国人を怪我で欠き、中村武志も極度の不振に喘ぐなど、高木ドラゴンズは「強竜打線」の名称とは裏腹に貧打に苦しんでいた。この日の3番に今季初スタメンの神山一義を入れたのも、そうした苦心の表れといえよう。

 だが、こんな時こそ燃えるのがガッツマン・立浪という男である。強かな背番号3は、復調の一打を決めるシチュエーションを今か今かと待っていた。

「全然合ってなかったしね。なんとかいい場面で打ちたい。調子の悪い時には(チャンスで)回ってきて欲しくない、と思うこともあるんですが、あの時は回ってこいと思ってました」

 1点リードの6回裏、さらに1点を追加したドラゴンズは依然2死満塁の大チャンスを迎えていた。野村を攻略し、一気に突き放すには絶好の好機だ。ここで打席には立浪が向かう。苦しい時ほどチームを救うバッティングができるのがチームリーダーというもの。最大限に集中力を高めた立浪は、その狙いを「フォークかスクリュー、いずれにしても落ちるボール」に絞り込んだ。

 真っすぐを見送った後の2球目、読み通りのフォークが高めに浮いたのを見逃さなかった。キレイにバットを振り下ろすと、打球は一直線にナゴヤ球場のライトスタンドへと消えていった。青春時代に苦楽を共にした親友から放った、試合を決定づけるグランドスラム。そして立浪にとって、これがプロ7年目にして初の満塁弾でもあった。

 試合は8対1で快勝。チームにとっても、立浪自身にとっても大きな意味を持つ一打になった。

前原敬遠、中村勝負の選択ミス

 野村攻略の糸口は、横浜バッテリーの “選択ミス” に起因する。この回、まず無死一、二塁というチャンスを作ったものの、仁村徹の試みたバントが投ゴロ併殺となって2死二塁。ここでバッテリーは7番・前原博之を敬遠し、中村との勝負を選んだ。この時点で打率.197では「さもありなん」といった感じだが、前原だって打率.171と似たようなものである。

 実績でみれば中村は前年18本塁打を放つなど、既に球界を代表する捕手として名を馳せており、いくらスランプの真っ最中とはいえ軽率だった感は否めない。結局中村が中前にタイムリーを放ち、野村の気勢を削ぐと、代打・松井隆が四球を選んで2死満塁。こうして打つ気満々の立浪を迎えたというわけだ。

 ちなみにナゴヤ球場でのドラゴンズの満塁弾は、90年以降ではこれが早くも10回目。年に2度以上の頻度で満塁弾が見られるのだから、ちょっとしたお祭りよりも景気がいい。古いファンが未だにナゴ球野球を愛し、バンテリンドームのテラス設置を渇望するのも無理からぬ事であろう。

1994.5.28

○中日8-1横浜

木俣はようやっとる (@kimata23) | Twitter

【参考資料】

『中日スポーツ』