ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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野村シダックスとドラゴンズは縁があった?~『砂まみれの名将 野村克也の1140日』を読む~

 オープン戦で体と心を慣らすとともに、野球本を読んで気持ちを高める今日この頃。そこで本稿では『砂まみれの名将 野村克也の1140日』(新潮社)について記したい。

 本書はノムさんが社会人野球・シダックスを率いた、2002年冬から05年冬にわたるノンフィクションだ。著者は当時のスポーツ報知の野村番で、現在は同紙デスクを務める加藤弘士氏。加藤氏とは筆者も何度か顔を合わせたことがあり、とても明るい方で会話が弾んだ記憶がある。

www.shinchosha.co.jp

2003年秋、監督要請は本当にあったのか?

 さて、そんな「野村本」の最新作(といっても前例のないパターン)の中で、ドラゴンズはどんな関わり方をしたのか。大きくは2回登場している。

 1回目は2003年の秋。ピンと来る方もいるだろうが、監督候補にノムさんが挙がったことである。実際に複数のスポーツ紙で「野村克也氏が中日監督候補に急浮上」と書かれる中、ある日チームマネージャーのもとにこんな電話が来たという。

「中日ドラゴンズの佐々木恭介です。野村監督におつなぎいただけますか」
 監督代行からの突然の連絡。(中略)
「監督、ドラゴンズの佐々木恭介さんからお電話です」
 次の瞬間、野村の声が裏返った。
「え~っ!?」


p.126~127 第5章 エース争奪戦「アンチ巨人は誤解やで!」より引用

 本文ではこのあと当時の西川順之助球団社長への取材も行われており、球団内部ではどういう経緯があって、最終的に落合博満政権になったのかが記されている。読んだ限りでは、少なくとも、ノムさんがドラゴンズを率いる可能性はゼロではなかったのだと思う。

あの変則左腕の憧れは“ウーやん”

 2回目は野村シダックスからプロ入りを果たした、武田勝へのインタビュー取材だ。武田勝といえば、日本ハムで左腕エースとして活躍し、独特な投球フォームを記憶する人もいるだろう。

 名古屋出身の武田勝を紹介する一文目が「尾張名古屋は野球どころである」――。これでもう心を掴まれるわけだが、それに続く本人の言葉からはこんな話が出てきた。

「落合さんがトレードで来たときには8歳だったんですが、興奮しました。翌年には立浪さんも入団して。『1番・彦野、2番・立浪、3番・ゲーリー』みたいな」

好きな選手は下の名前が同じ宇野勝だった。

「名前が一緒だから応援しようと思って(以下略)」


p.176 第7章 二人の左腕「愛なくして人は育たない」より引用

 幼少期からのドラファンである武田勝は、88年のリーグV直撃世代。そこから約20年後の日本シリーズで、ドームに生まれ変わった本拠地のマウンドに立つとは思っていなかっただろう。

 ちなみに、武田勝のインタビューが載る第7章には森福允彦(元ソフトバンクほか)のエピソードも掲載。奇しくも愛知県出身の両左腕が野村シダックスを支えていたのだと思うと、不思議な感覚になる。

Ikki KAGA (@ikki_0306) | Twitter