ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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ある日のドラゴンズ⑱雨の金沢、幕引きは意外な形で

 プロ野球の歴史は、記憶にも記録にも残らない「ある日」の積み重ねで出来ている。

 年間140試合のうち10年後も思い出せる試合は幾つあるだろうか。何の変哲もない日常はやがて記憶の彼方へと埋もれてゆく。

 しかし、忘れ去られた「ある日」もたまに引っ張り出してみれば案外懐かしかったり、楽しめるものである。今回紹介するのは1991年5月のある日の出来事。雨の金沢での珍しい勝ち方を振り返ってみよう。

1991年5月15日vsヤクルト(石川県立野球場)

 ASKAの名曲「はじまりはいつも雨」がヒットチャートを席巻していた、まさにその時期の出来事である。

 激しい雨が降りしきる金沢の夜、マウンドに立ったのは地元が生んだスター・小松辰雄だった。しかしこの小松がピリっとしない。試合は初回1点、2回5点とドラゴンズが序盤から6点の大量リードを奪う余裕の展開。ところが3回までピシャリと抑えていた小松が、中盤を迎えたあたりで突如として崩れ始めた。

 4回に秦真司のソロで1点を返されると、5回は簡単に2死を取ったあとに荒井幸雄、レイ、秦にいずれも追い込んでから3連打を食らい4点差。続く広沢克己には2ボールからストライクを取りに行ったスライダーをスタンドへ運ばれ、あっという間に1点差である。小松ほどのベテランでも、慣れない地方球場のマウンドということに加え、鬱陶しくまとわりつく雨の影響は少なくなかったのだろう。“あと1死”、勝利投手の権利を目前にして、投げ急いだ感は否めない。にわかに試合の雲行きは怪しくなった。

 現代野球ならここでお役御免となるのだろうが、星野監督は5回終了まで小松に投げさせた。風雲急を告げる形勢。6回こそ上原晃が無失点に抑えたものの、7回に今度は山田喜久夫がつかまると、2死一塁でたまらずベンチは守護神・郭源治を投入。だが広沢の投ゴロをはじいて一、二塁とすると、続く池山隆寛に三遊間を抜かれて遂に試合は振り出しに戻ってしまう。6点リードの楽勝ムードがまさか、まさかの大波乱である。

 この時、ファン、そしてベンチの脳裏には一年前の悪夢がよぎっていた。4月17日の広島戦。8-1の7点差から6,7回に計8点を失い大逆転負けを喫した、忘れがたき記憶。そういえばこの試合も先発は小松だった、という不吉な符号もイヤな感じだ。30年近く経った今は2019年の「6×」がこの手の悪夢の代名詞となっているが、当時も大量リードからの逆転負けは、シーズンを跨いでファンを苦しめるトラウマだったのだ。

 さて、こうなると試合がどう動くかはもう予測不能。雨はやむ気配もなく降り続いている。得てしてこんな時、決着は意外な形でつくものだ。同点に追いつかれた直後の7回裏、中日の攻撃。無死満塁の好機を作ったが、4番・宇野勝の打球は最悪の三ゴロ。一斉にため息が球場を包む。角富士夫がベースタッチしてホーム送球。しかし、ここで事件は起きた。古田敦也に代わって途中からマスクを被る中西親志が、何を勘違いしたのかホームを踏んだだけで一塁へ送球したのだ。

 三塁走者の立浪和義が、まるでジョギングでもするかのような涼しい顔でホームに還ってきた。そのすぐ横には中西の背中。中日ベンチは「セーフだ!」とお祭り騒ぎ。一方のヤクルトベンチは……想像だが、あきれ顔の野村監督の姿が容易に目に浮かぶ。

「僕は後ろを向いて走っていないから、フォースプレーかタッチプレーかはわかりませんが……」とは、思わぬ形で決勝のホームを踏んだ立浪談。当時の新聞には「ニヤニヤしながら振り返った」とある。ただし、そもそも満塁を作ったのが立浪の “足” によるものだったことは触れておけなばならない。

 この回、先頭で二塁打を放った立浪は、続く山口幸司の三塁線へのスリーバントで、際どいタイミングながらヘッドスライディングを敢行。野選をもぎ取っていたのだ。立浪が出塁した時点で、ヤクルトベンチは犠打を警戒して速球派の岡林洋一にスイッチしていた。立浪のセンスあふれる走塁が、ID野球の思惑を破ったのである。

 雨に打たれながらの長丁場。もし負けていたら、この年のワーストゲームにもなりかねない凡戦を地方のファンに見せてしまうところだった。最後はラッキーな形でつかんだ勝利。だが決して運がよかっただけじゃない。立浪の “巧さ” が運を手繰り寄せたのである。

1991.5.15

◯中日7-6ヤクルト

木俣はようやっとる (@kimata23) | Twitter