ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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「中日・清原和博」誕生!?過去に二度あった中日入りの可能性

 ifの未来を知る由は永久に無い。もし長嶋茂雄が南海ホークスに入っていたら? もし蔭山和夫が急死していなかったら? もし清原和博が巨人に指名されていたら? プロ野球も創設86年ともなれば、誰もが見てみたいと思える “ifの世界線” が数多く存在する。

 ドラゴンズ文脈でいえば2003年オフ、何人かの新監督候補の中から落合博満が選ばれない世界線は、やはり興味がある。その中でも最有力と謳われ、一旦は水面下で監督就任が決定したとも言われる故・高木守道さんが、翌年落合監督の胴上げを解説席から眺めながら「私ならこんなチームは作れなかった」と呟いたのは印象的な一幕だった。

 また10.8決戦で、今中慎二の次に山田喜久夫ではなく山本昌を投入していたら空気も変わっていたのだろうか? とか、2007年の日本シリーズ第5戦で、山井大介を9回も投げさせていた場合の結末とか……。ドラえもんの住む22世紀どころか、30世紀くらいにならなければ実現しそうにもない夢のまた夢だが、叶わないからこそifの妄想はどこまでも拡がるし、あれこれ考え始めるとキリがないのである。

過去に二度、中日入り間際までいった清原氏

 本日の北谷がいつになくざわついたのは、あの清原和博氏が視察に訪れたからに他ならない。黒い傘を片手に球場入りした、黒スーツ姿の清原氏は貫禄たっぷり。PL学園の後輩である立浪監督と仲睦まじく語らっていると、同校のOB福留孝介を皮切りに、岡林勇希、石川昂弥、鵜飼航丞といった若竜たちが直立不動で挨拶に出向く。

 さらに6日に続いて二度目の来訪となった松坂大輔氏までもが背筋をピンと正して清原氏と会話する姿を見ると、あらためてその存在感の凄さを思い知らされる。たとえ拭い去りがたい前科があるとはいえ、全ての野球人にとって “清原和博” がオンリーワンな存在であることに変わりはないのだ。

 さて、この清原氏は実は過去に二度、ドラゴンズ入団の間際まで行ったことがあると言われている。最初はご存知1985年のドラフト会議。清原本人の大本命だった巨人が同じPL学園の桑田真澄を指名し、茫然自失とする中で、南海、日本ハム、中日、近鉄、西武、阪神が清原を1位指名。6分の1のくじ引きに外れ、残念ながら「中日清原」誕生はならなかったが、もし当てていたら「世紀のトレード」での落合博満獲りも無かったかも知れず、そうなると後の「中日落合監督」もあり得ないわけで……と、つい歴史のifに妄想をめぐらせてしまう。

 次に清原獲りを画策したのは、他でもない落合監督だった。2004年オフ、堀内巨人で出場機会の激減していた清原を、一塁手の大砲を欲していたドラゴンズがトレードで獲得を狙っているようだと、当時複数のメディアが報じたのだ。蓋を開けてみれば獲得したのは同じ一塁手でも全くの別人、横浜のタイロン・ウッズだったが、翌年清原が巨人を喧嘩別れのような形で退団した際にも、再び同じような噂が飛び交っていたと記憶している。

 火のないところには何とやら。清原獲りに向けて水面下で何かしらの動きがあったのは間違いなさそうだ。そういえば1996年オフに落合が巨人を退団したのも、直接の引き金は長嶋監督の「欲しい欲しい病」による清原の獲得であった。落合と清原、何かと交差するこの二人は不思議な糸で結ばれているように思えてならない。

 その清原が可愛い後輩の激励に訪れ、なんとドラゴンズ帽を被る大サービスを披露。

 現役時代は叶わなかった「中日清原」を一瞬でも見ることができて、感涙を禁じえなかったのは言うまでもない。

木俣はようやっとる (@kimata23) | Twitter