ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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ある日のドラゴンズ⑰若き立浪和義が屈辱にまみれた日

 プロ野球の歴史は、記憶にも記録にも残らない「ある日」の積み重ねで出来ている。

 年間140試合のうち10年後も思い出せる試合は幾つあるだろうか。何の変哲もない日常はやがて記憶の彼方へと埋もれてゆく。

 しかし、忘れ去られた「ある日」もたまに引っ張り出してみれば案外懐かしかったり、楽しめるものである。今回紹介するのは1989年2月のある日の出来事。入団2年目の立浪和義が最大のピンチに陥った話をお聞きいただこう。

1989年2月9日 豪・ゴールドコースト

「去年、何のために宇野を二塁に回してまで立浪にショートをあげたんだ。野球をナメとる」

 星野監督が特定の選手に対してここまで怒りを露わにするのはめずらしい。闘将とはあくまでグラウンド内での顔であり、マスコミを通した選手批判を好むタイプではない。いわんや立浪が標的となれば、ますます希少価値(?)が高いといえよう。何しろ「タツが怒られているのを見たことがない」とOB達が口をそろえる、あの立浪である。

 何がそこまで星野を怒らせたのか。それはこの日の練習を見れば一目瞭然だった。

 豪州ゴールドコーストでおこなわれたこの年の春季キャンプ。2年目を迎えた立浪を、首脳陣は当然ながらレギュラーメンバーとして頭数に入れていた。だが、いざ練習が始まっても立浪の送球は山なりの弱々しい軌道を描くばかりで、いつまで待っても改善の兆しがない。それもそのはず、この時点で早くも立浪の右肩は限界を超えていたのである。

 前年のフロリダキャンプで痛めた同箇所は、シーズン中の幾度もの帰塁やガッツ溢れるプレーによりじわじわと悪化の一途を辿っていた。オフには愛知県知多郡のスポーツ医科学研究所に泊まり込んで治療にあたったが、既に対症療法ではどうにもならないほどに状態は深刻だった。

 それでも立浪はこの日(“漫画の神様” 手塚治虫の訃報が日本中を駆け巡った日でもある)、休日返上でスローイング練習を敢行。「だんだん良くなっていると感じます。(二次キャンプの)沖縄には間に合わせます」と気丈に振る舞いつつ、黙々とフェンス相手に送球を繰り返した。その健気な姿は、正岡守備コーチも「あの必死の姿を見てください。あいつはなんとかしようと死に物狂いでやってきた……」と、思わず情をかけてしまうほどだった。

 そうは言っても依然として全力送球はできず、内外連携プレーでも立浪は練習から外されるようになっていた。仁村弟を二塁、宇野を三塁に回した新布陣も遊撃・立浪がいてこそ成り立つ。だが今のままではその構想も白紙に戻さざるを得ない。星野監督の「野球をナメとる」発言は、こうした状況に痺れを切らして飛び出したものであった。

初めてレギュラーを奪われる怖さを思い知った一年間

 それから数日後、立浪の姿は沖縄ではなく愛知県にあった。完治するまで無期限に、スポーツ医科学研究所での療養生活を星野が指示したためである。コーチ、トレーナーを含めて球団関係者らの付き添いは一切なく、自力での復帰を促すという星野流の試練を与えたのだ。

「まだ痛いんです。仕方ありません」と淡々と語る口調とは裏腹に、昨季の新人王は内心では腑(はらわた)が煮えくり返るほどの気分だったに違いない。ついこの間まで沖縄行きを目指して必死にトレーニングしていたはずが、チームを離れ、退屈な療養生活を余儀なくされるとはーー。

 だが、首脳陣はあくまで冷淡だった。いや、立浪という将来のドラゴンズを背負って立つ選手に対して「敢えて冷淡を貫いた」と言った方が適切か。

 復帰時期に関して木俣コーチが「完璧にプレーできなければペナルティ、あるいは再入院させる」と一切の妥協、甘えを排して接する姿勢を示せば、星野監督に至っては「“痛い” と言って休み休み出場させたりすることは、元のドラゴンズの甘い体質に戻ることだ」と突き放すように吐き捨てた。

 もちろん全ては立浪の為を思ってのことだ。しかし、まだ少年の面影すら残る19歳の立浪にとってはキツい試練だったに違いない。この年は結局30試合出場に留まるなど、キャリア最悪のシーズンに終わった。PL学園時代から常にチームの中心にいた男が、初めてレギュラーを奪われる怖さを思い知った一年間。

 この屈辱を経て、翌年立浪はひとまわり成長して復活する事となる。後に “3代目ミスタードラゴンズ” を襲名する男の、まさに原点ともいえる出来事であった。

木俣はようやっとる (@kimata23) | Twitter

【参考資料】

「中日スポーツ」