ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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かつて立浪も通った道ーー根尾昂が歩むフォーム改造の終わりなき旅

「人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある」と説いたのは幕末の土佐藩士・坂本龍馬である。近江屋で殺害されたのが満31歳のときなので、今日において「名言」として伝わる言葉の多くは、20代のときに遺したものであろう。

 凡庸な想像を巡らせるなら、龍馬自身も「人の世に道は一つということはない」という結論に至るまでには幾度もの挫折に衝突したに違いない。

 さて、ここで根尾昂である。入団4年目を迎えた人気者が今年も壁にぶち当たっているようだ。7日のシート打撃では “直球オンリー” の縛りがある中でも快音は響かず、3打数無安打に終わった。

 今季は入団以来抱き続けてきた遊撃へのこだわりを一旦は封印し、心機一転「外野手」として打撃を磨く道を選んだ。そのためにまず確実性を上げるべく昨年の秋季キャンプから取り組んでいるのが、いわゆるノーステップ打法だ。

「今は確実性を上げる、再現性を上げるにはこれが一番かなと。ライナーから伸びていく打球が強いしヒットになりやすい」(中日スポーツ)と本人も手応えを口にするが、一方でフリー打撃の映像を見る限り、石川昂弥や鵜飼航丞といった同世代の放つパワフルな打球に比べ、やや打球が弱々しいのも気になってはいた。

 本日のフリー打撃では一転して再び右足を上げる打法に戻していたが、これが練習の一環なのか、あるいは打法を試行錯誤しているのかは現時点では分からない。こうした些細な話題が過度に心配の対象となってしまうのはスターゆえの不幸ではあるが、そうは言ってもまだキャンプの第2クール、あれこれ邪推するのは拙速にすぎるといえよう。

 根尾だけではなく、これまでにも多くの選手がキャンプ中にフォーム改造に取り組み、挫折や改変を繰り返してきた歴史がある。自室療養中の立浪監督もリモートで精力的に指導しているそうだが、その立浪でさえ現役時代は常にトライアンドエラーの連続だったのだ。

「悩んでるなら、こっちが決めてやるよ」

 入団後、立浪が初めて大きな改造に着手したのは高木守道監督が就任した1992年だった。

「足を上げるといい時はいいんだけど、悪くなると余分な力が入ってしまう。もっと確実に打つために、今はまだフォーム固めの段階ですよ」

 前年、惜しくも3割を逃した反省をもとに「確実性」を求めて取り組んだのが、まさしく今で言うところのノーステップ打法だった。そのまま根尾のコメントだと言われても違和感はない。つまり30年前、立浪自身がまったく同じを試みをおこなっていたのだ。

 落合博満直伝のスローボール打ちからヒントを得たという新打法だが、簡単には効果は表れなかった。シーズンに入ってもすり足で打ったり、右足を上げたりと試行錯誤の繰り返し。そんな状態が丸3年間も続いて迎えた1995年のアリゾナキャンプで、立浪は一つの “答え” に辿り着いた。

「悩んでるなら、こっちが決めてやるよ、と言ったんだ。立浪の場合、右ひざが左ひざのちょっと上に来るくらい足を上げた方が、タイミングは取りやすい」

 声の主は、張本勲臨時コーチ。前年には大豊泰昭が長年、悲願にしていた一本足打法を二人三脚で完成に導いた名コーチが、この年は立浪の打撃改造に着手したのである。

 3000安打の大打者による直接指導は効果覿面だった。類稀なるセンスを持つ男が汗水垂らして振って、振って、振りまくった一ヶ月間。キャンプ終盤には「今年はコレでいく、というのがあるから打つのが楽しい」と吹っ切れたように明るく語ったりもした。

 手応えどおり、このシーズンは3年ぶりの3割返り咲きを果たし、年俸も1億円の大台に乗せるなど充実の一年となった。しかし、そこに辿り着くまでに悩みに悩んだ日々があったことは忘れてはならない。

 その後も1997年には典型的な一本足打法に改造したり、晩年にはすり足や、ツーステップ打法を試すこともあった。立浪は引退を決意するまで終生、理想を追い求めて打法を変え続けた。いわんや根尾が今の時期にいろいろなフォームを試すことを「イコール悪」とするのは、やはり早計と言う他ない。

 まだ21歳である。人の道は一つにあらず。千も万も悩みまくり、理想の形を見つけ出して欲しい。

木俣はようやっとる (@kimata23) | Twitter

【参考資料】

「中日スポーツ」