ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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令和のデカちゃんだ! 鵜飼航丞

「月刊ドラゴンズ」12月号が売れに売れているらしい。立浪監督の笑顔が眩しい最新号は先月22日の発売と同時に瞬く間に店頭から姿を消し、今なお売り切れの店舗が絶えないという。知り合いの書店員いわく「こんなに月ドラが売れるのはウーやんが再婚した時以来だよ」との事で、早くも “立浪効果” が経済に表れている様子だ。

 そのレアな月ドラを発売直後にいち早くゲットした私が、今回の誌面で「おっ」と思ったのは立浪監督に関する諸々の記事ではなく、この雑誌の看板コーナーでもある木俣達彦氏のコラム「マサカリ木俣半世紀」の内容であった。

 2018年1月号からスタートしたこのコラムは、木俣氏が19年の現役生活での様々な経験やエピソードを交えながら、今のドラゴンズのトピックスについて鋭い視点で斬り込むというもの。税込550円でこれが読めるのは破格だと断言できるほどの濃い内容で、毎回楽しませてもらっている。

マサカリ木俣に忖度なし

 この最新号で木俣氏が取り上げたのが、ルーキー鵜飼航丞のバッティングフォームだった。まだ発売中の雑誌なので詳しい内容は割愛するが、連続写真をもとにメカニック的な観点で分析するという趣旨のなかで、木俣氏は鵜飼を「この選手はいけるぞ。ドラゴンズにとって待望久しかった長距離砲に必ずなれる、と私は確信した」と手放しで大絶賛しているのだ。

 入団したばかりの選手に対しては期待値も込みで甘めに査定するのがセオリーではあるが、木俣氏に限ってはそれは当てはまらない。3年前、根尾昂の入団が決まった際には誰しもがその人間性から技術まで全てを褒めちぎり、すわ開幕スタメン間違いなしという論調が主流を占める中にあって、木俣氏は「高卒ですぐ活躍したのは清原和博と立浪和義くらい。そう簡単にはいくまい」というスタンスを頑なに崩さず、結果的にその予言は不本意ながら的中してしまったのである。

 数年前の開幕前にはラジオの生放送で「今年のドラゴンズは最下位!」と大胆にも断言し、顰蹙を買ったこともある。だが、建前ばかりが横行する社会において、こうした毒舌家の存在は貴重だ。マサカリ木俣に “忖度” の2文字は無し。だからこそ、たまに褒めた時の説得力は段違いなのだ。

外すわけにはならない「4」の先代

hochi.news

 木俣氏がめずらしく褒めた逸材・鵜飼が17日、名古屋市内のホテルで新入団発表に臨んだ。背番号は今季まで藤井淳志が付けていた「4」に決定。「ドラゴンズ、日本の4番を打ち、いずれは40本塁打を打ちたい」とでっかい目標を掲げた。

 長く背負った藤井のイメージが定着している背番号4だが、ドラゴンズの歴史の上では「助っ人ナンバー」の意味合いが強い番号でもある。

 有名どころでは2004〜06年のアレックス・オチョア、また1999年の優勝に貢献したレオ・ゴメス、1996年に強竜打線の核弾頭を務めたダネル・コールズなんて名前も懐かしい。さらに遡れば、1969年のスティーブ・フォックスから1988年のゲーリー・レーシッチまで、20シーズンに渡って連続8名の外国人が付けた番号という事で、やはり「助っ人ナンバー」と呼んでも差し支えはないだろう。ちなみに日本人ルーキーに「4」が与えられるのは1989年の清水雅治以来、実に33年ぶりのことだ。

 パワーヒッターという点では鵜飼にはゴメスのような活躍を期待したいところだが、歴史研究家としてはこの先代の名前を外すわけにはなるまい。1951〜56年まで「4」を背負った大打者といえば、ご存知 “デカちゃん” こと杉山悟である。

 戦後間もない1948年に入団。2年目に早くも31本塁打を放つと、1952年には27本でホームラン王を獲得。球団史上初の日本一に輝いた1954年も4番を張ってチームを牽引した、球団初期を代表する名スラッガーである。愛称の “デカちゃん” は、当時としては大柄な180センチを超える体躯に由来するという。

 打率は高くないが長打力があり、打点王を2度獲得した勝負強さが売りだった。まさに今のドラゴンズに足りない部分を持った選手であり、奇しくも同じ外野手として、鵜飼にはぜひ杉山のように育って欲しいと願わずにはいられない。

 木俣氏も太鼓判を押したその打棒を武器に、“令和のデカちゃん” が大暴れする姿が待ち遠しい。

(木俣はようやっとる)