ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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君は立浪和義を知っているか⑧3代目ミスタードラゴンズ

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 老若男女、全世代に愛される稀代のスーパースター・立浪和義。では、いったい立浪の何に我々はこんなにも魅力されるのか。いったいなぜ10年以上も監督就任を待ち続けることができたのか。

 その軌跡を、あらためて紐解いてみたいと思う。

第7回「渾身の力を込めて」

瞬刻に懸ける

「1億円で契約してもらいました。厳しいといえば厳しいかもしれませんが、当然といえば当然です。代打だけで1億円は高い。それだけ頂けるのはありがたいことです」

 2006年オフの契約更改。会見席の立浪はどこかすっきりした表情で、球団への感謝を口にしていた。同時にこれは、代打の切り札として生きていくことの決意表明でもあった。

 当時の球団最大となる56%、1億2,500万円の大幅減俸を受け入れ、レギュラーへの想いを断ち切るまでには想像もつかないような葛藤があったに違いない。誰よりも長くレギュラーを張り、中日の顔として君臨し続けた栄光の背番号3。根性と気迫でプロ野球の世界を生き抜いてきた立浪にも、終わりの時は刻一刻と近付いていた。

 2月。北谷キャンプでは、20年目にして初めてという毎朝のウェートトレーニングに励んだ。練習のほとんどをバッティングに費やし、ホテルの部屋では漢字の書き取りドリルや野球日誌も付け始めた。

「集中、精神統一です」と立浪は笑った。代打はいつ出番が来るか分からない。そして一打、一瞬にその日の全てを懸けなければならない。“代打道” を極めるためなら、一見野球と関係ないような事でも立浪は貪欲に取り入れた。

 立浪ほどのベテランが初心に帰るのは、決して生易しい事ではない。突き動かしたのは、覚悟だった。

「今年1年ダメだったら、もう辞めないといけない」

 自分を控えに追いやった落合監督を恨んだり、レギュラーを奪った森野将彦をいびるようなマネはせず、立浪は残り少ない野球人生を全うすべく、ただひたすらに自分を追い込んだ。

 3月30日。ナゴヤドームで迎えた開幕戦。スターティングオーダーに、見慣れた「立浪」の2文字は無かった。2年目の'89年以来、18年ぶりにベンチで眺める開幕戦。だが怪我でやむを得ずメンバー入りを外れた当時とは状況が違う。それでも立浪は愚痴ひとつこぼさず、ベンチ裏で “その時” に備えてバットを振りながら、出番を待った。

 8回裏。逆転された直後のこのイニング、2死走者なしから打線が繋がり、試合は振り出しに戻った。なおも二塁に走者を置いた状況でヤクルトバッテリーは森野を敬遠。谷繁元信との勝負を選択した。

 ここでベンチが動いた。落合監督がゆったりとした挙動で審判に歩み寄り、その名を告げる。そして場内に「谷繁に変わりまして、バッター立浪」というコールが響くと、満員のスタンドは地鳴りのような拍手と歓声に包まれた。

 ヤクルトも左腕の佐藤賢にスイッチしたが、場の空気に呑まれたのか制球定まらずカウント3-0。なんとかフルカウントに持ち直し、勝負の6球目。立浪は、真ん中低めに入った変化球を見逃さなかった。鋭いスイングでボールを捉えると、打球はセンター前に抜けて行った。勝ち越しタイムリー。結果的にこれが決勝点となり、ドラゴンズは幸先よく逆転勝利でシーズン1勝目を飾った。

 お立ち台に上がった立浪は、めずらしく感情を昂らせて、こんな事を叫んだ。

「今年は日本一になるまで泣きませんので、日本一になってみなさん一緒に泣きましょう! 今日はありがとうございました!」

 いつも冷静沈着なチームリーダーが、開幕の1勝で「日本一」という言葉を使ったのが印象的だった。このシーズンに懸ける想いの強さが伝わる、決意に満ちたスピーチだ。

 瞬刻に懸ける「代打」という役割で新たなスタートを切った立浪は、この日から「切り札」、さらに「神様」へと上り詰めていくことになる。

3代目ミスタードラゴンズ

 シーズン終盤のある夜、立浪はテレビカメラの前で弱音を吐いていた。

「情けない。足ばっかり痛めて。試合も出てないのに、本当に恥ずかしいですよ」

 満身創痍の身体は、とうに限界を超えていた。振り返れば、故障だらけの野球人生。旧友の片岡篤史も前年にユニフォームを脱ぎ、イヤでも立浪の脳裏には「引退」の2文字が常にちらついていた。それでも立浪は忍び寄る魔の手を振り払うように、練習に励み、結果を残し続けた。

 あの頃の試合終盤、ナゴヤドームが最も盛り上がるのは、「代打・立浪」の登場シーンと決まっていた。まるで千両役者の登場を待ち侘びていたかのように、いつも立浪はスタンディングオベーションで迎えられた。

 老若男女、誰もが打席の立浪に夢中になり、その日一番大きな声援を贈る姿が、今でもこの目に焼き付いて離れない。期待の若手ではなく、20年目の大ベテランに対して、である。

 

 エリートのイメージが強い立浪だが、その実像は入団以来、常に逆境と戦い、乗り越えてきた努力の人である。プロ20年目を迎えた'07年もそうだ。レギュラーの座から陥落した立浪は球団新記録の代打打点27を叩き出す活躍を見せ、またしても大きな壁を乗り越えてみせた。

 綺羅星のごとく現れ、たちまちスターの仲間入りを果たすも、右肩痛との戦いに苦心した'80年代。不動のレギュラーとして一流の成績を残しながらも、常に競争にさらされ、コンバートを繰り返した'90年代。4番を任されるなどチームリーダーとして円熟の境地に達するも、代打への挑戦を余儀なくされた'00年代……。

 平穏安泰とは程遠い壮絶な野球人生。それぞれの時代の「立浪和義」に、それぞれの時代のファンは熱狂し、感動を分かち合ってきた。「代打・立浪」に贈られるあの大歓声は、そうした個々のカタルシスの集積だったのではないだろうか。

 いつしか人々は、立浪のことを「3代目ミスタードラゴンズ」と呼ぶようになった。選ばれし者だけに許されるこの称号。異論を唱える者など、いるはずもなかった。

(つづく)

 

【参考資料】

『瞬刻 ~「一打」に懸けたミスタードラゴンズ 立浪和義の2007年~』(CBC,2007年12月2日放送)