ちうにちを考える

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君は立浪和義を知っているか⑤強固なプライドでセカンドを死守

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 老若男女、全世代に愛される稀代のスーパースター・立浪和義。では、いったい立浪の何に我々はこんなにも魅力されるのか。いったいなぜ10年以上も監督就任を待ち続けることができたのか。

 その軌跡を、あらためて紐解いてみたいと思う。  

第4回「26歳にして生涯竜を宣言」

強固なプライドでセカンド死守

 立浪は勘違いされていると思う。

 一般的に語られる立浪のイメージはこうだ。プロ1年目から活躍し、怪我を乗り越えて不動のレギュラーの地位を確立。若くして頼もしいリーダーとして先頭に立ち、常にチームを牽引してきた完全無欠の大スター。いわば「聖域」のような存在だと。

 そのイメージは実態と大きくかけ離れているわけではないが、必ずしも正解とは言えない。むしろ立浪ほど幾多の困難に晒されてきた選手はめずらしいといえるほど、そのキャリアは汗と泥、そして逆境にまみれたものだった。

 世紀末の活気に沸いた1990年代後半。選手として全盛期を迎えた立浪は、かつてない競争の真っ只中にいた。

「こんなに早く動き出したのは初めて。人工芝に負けない体力をつけておきたいから」

 '97年の年の瀬、立浪は例年よりも1ヶ月早く、来季に向けてウエートやランニングを開始した。ナゴヤドーム元年となったこの年はセカンドで3年連続となるゴールデングラブ賞を受賞したが、失策は11個を数えるなど本来の動きは見られなかった。

 下半身に負担がかかるドームの人工芝は、プロ10年目を迎えた立浪の体力を容赦なく蝕んだ。シーズン中に左膝を痛め、腰痛にも悩まされた。兼ねてからの右肩痛に加え、10.8で負った左肩痛も依然として疼いたままだ。

 “満身創痍” ーー。セカンドを守り続けることが難しいのは誰の目にも明らかだったが、立浪は「言い訳にしたくない」と、あくまで内野手にこだわった。

 ただ、本人の意志とは別に星野監督は粛々とポジションの再整備を進めていた。'98年は南渕時高、久慈照嘉という実績のある内野手を獲得。さらに韓国から李鍾範を獲り、手負の立浪は必然的にレフトへと追いやられる形となった。公式戦で初めて「3番レフト立浪」がコールされたのは、この年の開幕戦のことだ。結局この年、立浪は本職よりも多い86試合に外野手として出場。4年連続出場のオールスターも、もちろん外野手としての選出だった。

 それでも立浪は、慣れ親しんだ内野への想いを断ち切れずにいた。翌'99年はキャンプ中に「今年はセカンドにこだわり続ける」と宣言したが、それを伝え聞いた星野は「決めるのはオレだ!」と取り合わなかった。この年は大型ルーキー・福留孝介が加入し、星野は無条件でのショートスタメン起用を示唆していた。

 となると、自ずとセカンドは激戦区となる。しかし優れた守備と勝負強いバッティングを武器に、前年途中からショートのレギュラーを奪った久慈の評価が高く、立浪は「セカンドの控え」というにわかに信じがたい状況へと追い詰められた。

 意気込んで臨んだキャンプも二度の負傷離脱でふいにし、ようやくオープン戦に出場したのが3月半ばのこと。「セカンドを自分でやると言っておいて、この程度の練習について来れないようでどうする!」と星野の逆鱗に触れたのも無理はなかった。

 だが一方で、この監督は闘争心や反骨心といった選手の貪欲さを好む一面も持っていた。外野起用への複雑な心境を隠さず、キャンプにも内野手グラブしか持参しなかった一本気な愛弟子が、本心では可愛くて仕方なかったのだろう。

 '99年の開幕戦、「5番セカンド」の場内コールと共に、立浪は真っさらな定位置へと小走りで向かった。競争に勝ったというよりは、実績と執念でなんとかもぎ取ったようなプロ12年目のスタート地点だ。この試合で立浪は決勝点となる逆転タイムリーを放ち、その存在感を強烈に印象づけた。その後、セ・リーグ新の “11” まで伸びる開幕連勝記録の導火線に火を点けたのは、やはりこの不屈のチームリーダーだった。

 しばしば立浪は “上に取り入るのが上手い” という言われ方をするが、果たしてそうだろうか。もし立浪が素直に監督に従い、易々と外野コンバートを受け入れる性格ならば、ドラゴンズの運命も違ったものになっていただろう。納得いかなければ頑として譲らない。「立浪和義」とは、そんな強固なプライドも併せ持った男なのだ。

外野初体験は世界の王の一言で

 ところで立浪が初めて外野で起用されたのは'98年の開幕戦と書いたが、これは公式戦の話である。実はその1年半前、ひと足早く外野を守ったことがあった。'96年11月7日、福岡ドームでおこなわれた日米野球第5戦。ここで立浪は、初体験のレフト守備に就いた。

 6回表、その時は突然やってきた。全日本を率いる王貞治監督から「守れるか」と打診を受けたのだ。選手起用の兼ね合いで、断ればお役御免という場面だったが、「せっかくだから試合に出ていたかった」と快諾した。外野手グラブはイチローに借り、慣れない守備位置に就くと、見せ場はすぐに訪れた。

 2死一、二塁。前の打席でライトスタンドに特大の一発を放っているバリー・ボンズが、今度は左中間に大飛球を打った。グングンと伸びる打球に俊足を飛ばして追いすがる立浪が、最後は背を向けたままいっぱいに手を伸ばしてランニングキャッチ。満員のスタンドにどよめきと拍手が起こった。

「イチローのグラブがよかったんですよ。普通の外野手なら何でもないフライ」と本人は謙遜したが、このプレーに驚嘆したのは意外にも相手ベンチだった。米代表・ダスティ・ベイカー監督は「あの外野手は誰だ」と自軍の野茂英雄に尋ね、「ウイリー・メイズを思い出したよ」とかつての名選手になぞらえて賛辞を贈った。

 それにしても、星野への断りもなく大胆な起用ができてしまうのは世界の王ならではと言うべきか。「来年から本拠地がドームに変わるんだし、やれるというところを示したいい機会じゃないかな」と王は内・外野の兼業を薦めたが、まさかこれが “予言” になろうとは……。

 もしこの時にヘタな守備を見せていれば、ひょっとするとその後の外野起用も無かったのかもしれない。つくづく人の運命とは分からないものである。

(つづく)