ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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君は立浪和義を知っているか④26歳にして生涯竜を宣言

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 老若男女、全世代に愛される稀代のスーパースター・立浪和義。では、いったい立浪の何に我々はこんなにも魅力されるのか。いったいなぜ10年以上も監督就任を待ち続けることができたのか。

 その軌跡を、あらためて紐解いてみたいと思う。

第3回「根性と気迫のチームリーダー」

2年越しの大台到達

 プロ野球の歴史とは、選手の社会的地位向上の歴史でもある。1970年代まではドラフトで指名を受けても入団拒否する選手が絶えず、中日も第1回ドラフト会議がおこなわれた'65年は指名した11人のうち6人にお断りされている。初めて全12球団の入団率が100%を記録したのは'87年のことで、王貞治、落合博満を筆頭としたトップ選手や、労組選手会が尽力した選手年俸の高騰と密接に関係しているのは言うまでもない。

「プロ野球は大金を稼げる」。そんなイメージが定着したこの頃から、球界のステータスは “1億円” という新たな目標に置かれるようになった。

 立浪が夢の大台に到達したのは、'94年オフのことだ。

 交渉時間、わずか10分。提示額を見るなり「はい、これで結構です」とポケットからハンコを取り出してサインした。9700万円から19%増の1億2000万円。球団の生え抜き選手としては、今中慎二、山本昌、そして立浪と初の大台到達者が軒並み誕生したオフとなった(落合は移籍組、郭源治は'89年途中まで外国人登録)。

 大台を意識したのは2年前の冬。それまで優等生を通していた立浪が、このとき初めて契約を保留した。春先に右腕と人差し指を負傷して32試合を欠場したシーズンだが、終わってみれば規定打席にも到達し、自身二度目の3割もクリアした。

 球団の提示は18%アップの6500万円だったが、立浪は「このオフは1億円を目標に練習したいし、その踏み台にするためにもこの金額ではハンを押せない」と、7000万円という具体的な要求額まで示して保留の理由を説明した。

 同期ではヤクルト・長島一茂に6倍もの差をつけ、ぶっちぎりの高給取りとなったが、あくまでも目標は1億円とし、2週間後におこなわれた再交渉では「希望にはちょっと足りなかったけど、納得してます」と6800万円で妥結した。「成績が悪ければ、しっかり下げてもらっていい」という一言が決め手になり、上積みを勝ち取ったという。少しでも1億円に近づけたいという執念が勝った格好だ。

 翌'93年は128試合に出場して打率.286。特に本塁打16、打点50は共にこの時点でのキャリアハイの数字だったが、惜しくも1億円には届かず9500万円でサイン。その翌年、満を持しての大台到達は2年越しでの悲願達成となった。

 ただ、これで有頂天になるほど立浪という選手は軽薄ではない。「来年は打たなければだめ。そういう給料をもらっているんですからね」と、早くも “1億円プレーヤー” としての自覚を胸に、気を引き締めたのだった。

26歳にして生涯竜を宣言

 ところで立浪がFA権を取得したのは、いつだったのか。そして、長年の貢献の末に手にした権利をどう使ったのか、あるいは使わなかったのか。中日一筋のミスタードラゴンズのFA権にまつわる逸話はあまり語られてこなかったので、この機会に追懐しておこう。

 今オフ、又吉克樹をはじめ複数のFA持ちとの残留交渉に挑む新監督が自身の同権利を取得したのは'98年オフのこと。ただし当時、ほとんど誰もこの件には触れず、きわめて穏便に新たなシーズンへの契約更改を済ませている。これにはある事情があった。

 90年代後半といえば長嶋茂雄監督の「欲しい欲しい病」とも揶揄された補強癖と、その豊富な資金力を武器に巨人が他球団の主力野手を毎年のように乱獲、そのたびに物議を醸していた時代だ。巨人のセカンドには名手・仁志敏久がいたとはいえ、多少のポジション被りを気にかけるほど神経質な球団ではない。もし立浪に少しでも行使の意思があれば、地元大阪の阪神ともども間違いなく触手を伸ばしていただろう。

 つまりは立浪自身にその気が無かったわけだが、実はこれは'95年オフに決まっていた既定事項だった。1億円プレーヤーになった翌年、中日は立浪と3年間の複数年契約を締結していたのだ。出来高含めて総額7億円という破格の条件は、「3年後のFA移籍を放棄する」という申し合わせの下、立浪が提案し、双方合意して結んだものだった。FA取得前にあらかじめ複数年契約を結んで身元を保証する手段は今でこそめずらしくないが、当時は過去に例のない日本球界初の試みであった。

「8年もお世話になり、応援してもらった球団を離れられますか? 要らない、と言われない限り僕から球団を出ることはありません」

 FA権どころか、26歳にして事実上の「生涯竜」を宣言した立浪は、この頃から将来の幹部候補として球団内外で一目置かれる存在となっていく。

 名実ともにドラゴンズの “顔” に育った立浪の野球人生は順風満帆そのもの。その輝かしいキャリアには一点の曇りすら見当たらず、誰もが羨望の眼差しを向けた。しかし選手として脂の乗る20代後半を迎え、まさか再び窮地に立たされようとは、周りの人間はもちろんのこと、おそらく本人も予期していなかったのではなかろうか。

 “闘将” 星野仙一の監督復帰、そしてナゴヤドーム移転という、同時期に重なった二つのビッグイベントが、その華やかな地位を大きく揺るがすことになろうとは--。

(つづく)