ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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君は立浪和義を知っているか③根性と気迫のチームリーダー

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 老若男女、全世代に愛される稀代のスーパースター・立浪和義。では、いったい立浪の何に我々はこんなにも魅力されるのか。いったいなぜ10年以上も監督就任を待ち続けることができたのか。

 その軌跡を、あらためて紐解いてみたいと思う。

第2回「高木守道も認めた非凡なセンス

決意のセカンドコンバート

 ルーキーイヤーに新人王とゴールデングラブ賞を受賞、おまけにチームの優勝も味わうなど、いきなり孝行息子となった立浪だが、2年目は右肩の状態がおもわしくなく、わずか30試合出場にとどまった。しかし3年目の1990年は初の3割台、ホームランも二桁に乗せるなど復活を果たし、翌'91年は全試合出場を達成。この頃から新聞や雑誌には「若きチームリーダー」の称号が早くも踊り始めた。

 しかし、監督が高木守道に代わった'92年は立浪自身も大きな “変化” と共に、不安を抱えながらのスタートとなった。前年の秋季沖縄キャンプにおいて、立浪は大橋(穣)コーチ、高木監督との話し合いを経てセカンドに本格コンバートすることを決意したのだ。きっかけは、やはり右肩の爆弾だった。1年目のキャンプで負った故障は年々悪化の一途を辿り、遂には慣れ親しんだショートのポジションを諦めざるを得ない段階にきていた。

 そうは言っても、中学生時代から守り続けた “定位置” を手放すことに葛藤はなかったのか。当時の雑誌インタビューに、立浪はこう答えている。「肩の負担を考えれば、セカンドの方が楽だと思う。別に守備位置にこだわりはないですよ」

 だが、これはおそらく本心ではない。なぜなら前年の別のインタビューでは、ショートのポジションに対してこうも話していたのだから。「ショートを守り続けて、子供達の憧れになりたい」と。

 クールなマスクに闘志を秘めて、プロ5年目を迎えた立浪は新たな一歩を踏み出した。しかし、開幕を間近に控えて別の問題が浮上した。今度は肩ではなく、右前腕に痛みが表れたのだ。練習では山なりの送球しか投げられず、首脳陣も眉間に皺を寄せて見守るしかないほどその症状は深刻だった。

 それでも立浪の代わりはいない。「3番セカンド」で出場した開幕戦。気迫の男は、ナゴヤ球場のレフトスタンドに決勝アーチをぶち込んだ。溜め込んでいた想いが爆発したように、立浪は痛いはずの右腕を天高く突き上げ、悠然とベースを一周した。平成4年4月4日、午後4時44分の出来事である。

 だが勝利と引き換えに払った代償は小さくなかった。翌日はスタメンを外れ、9回に代打出場。まだ「大魔神」と呼ばれる前の佐々木主浩からサヨナラの押し出し四球をもぎ取り、2戦連続の勝利打点をあげたが、喜べなかった。人差し指と中指の腱が肉離れしているらしいという所見に、立浪は「とにかく早く治したい」と前を向いたが、バットを握ることすら困難な状態ではさすがに苦しかった。

 翌日に登録抹消され、しばらくはキャッチボールすらできない日々が続いた。ようやく復帰したのは開幕から1ヶ月半が過ぎた5月下旬。既に30試合以上を消化し、ドラゴンズは今ひとつ調子に乗れずBクラスに低迷していた。もし立浪が元気なら、このシーズンも違った展開になっていたかもしれない。この頃の立浪は、既に落合博満と並んで、その存在がチームの浮沈に直結するほどの影響力があった。

 24日の巨人戦。高木の「行けるか?」の問いに、立浪は力強く「行けます!」と答え、さっそく「3番セカンド」で戦線復帰した。著書『負けん気』によれば、この時の怪我は過度のアイシングによる凍傷であり、指先の麻痺は依然として残っていたという。そんな重傷にもかかわらず立浪は “治ったフリ” をして、何事もなかったかのようにグラウンドに帰ってきたのだ。

 何がそこまで立浪を奮い立たせるのか? プロとしてのプライドか、あるいはレギュラーとしての責任感か。人知れぬ辛苦を胸にしまい、背番号3はまた一歩、修羅の道へと踏み込んだのだった。

根性と気迫のチームリーダー

 高木政権初年度は、相次ぐ主力の怪我にも泣かされ、'80年以来となる最下位に沈んだ。特にペナントレースも佳境を迎えた8月の落ち込みはひどく、10個もマイナスを増やす低空飛行で一気に戦線から脱落。バルセロナ五輪や、星稜高・松井秀喜への5打席連続敬遠が物議をかもした甲子園が重なったこともあり、中日スポーツでさえ月間6度しか一面でドラゴンズの話題を取り上げない有り様だった。

 そんな中でもファンの精神安定剤のような役割を果たしたのが、立浪の勝負強いバッティングだった。この年、立浪は98試合の出場ながらなんとか規定打席に乗せ、リーグ10位の打率.301を記録。だが特筆すべきはリーグトップの.392を叩き出した得点圏打率だ。凍傷で思うように指を動かせないというハンデを背負った中でのこの数字には恐れ入る。

 思えば5年前の入団会見で、まだ学ラン姿だった立浪は「僕は体が小さいですが、根性と気迫では誰にも負けない選手になりたい」と宣言していた。まさしくその言葉どおりに自身を、そしてチームを引っ張る姿勢は、2年後の10.8決戦で「生涯一度きり」と言うヘッドスライディングによる左肩脱臼という形で表れてしまった。怪我を恐れず、いや、たとえ怪我をしていてもそれを言い訳にせずに全力プレーをみせる立浪の姿を見て、心を打たれぬ者などいるはずもない。

 落合が去ったドラゴンズにおいて、立浪は誰もが認める真のチームリーダーへと成長したのだった。

(つづく)