ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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君は立浪和義を知っているか② 高木守道も認めた非凡なセンス

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 老若男女、全世代に愛される稀代のスーパースター・立浪和義。では、いったい立浪の何に我々はこんなにも魅力されるのか。いったいなぜ10年以上も監督就任を待ち続けることができたのか。

 その軌跡を、あらためて紐解いてみたいと思う。

第1回「入寮日、志願の自主トレ」

高木守道も認めた非凡なセンス

 入寮から約2週間後の1月下旬。立浪の姿は南国・沖縄にあった。23日から始まった沖縄一次キャンプの選抜メンバーに、立浪は高卒ルーキーからただ一人抜擢されたのだ。宿舎の部屋割こそ中村武志、近藤真一と年代の近いメンバーと同部屋になるよう配慮されたが、グラウンドではそうはいかない。特に立浪が守る内野は落合博満、宇野勝という二大スターと並びながらの練習となる。緊張でどうにかなってしまってもおかしくない環境だが、ここでも立浪は非凡さを発揮した。

 第2クール二日目の28日。午後の守備練習が始まって間もない時だった。島谷打撃コーチの檄が球場中に響くと、一斉に目線がそちらに移った。

「こらあ! 宇野ぉ! 立浪に食われとるやないかぁ!」

 一歩目の速さ、捕球体勢、送球動作。背番号3がみせた流れるような一連のプレーは、まだ高校の卒業式さえ終えていない18歳のそれとは思えないほど洗練されていた。

「ウーやん、負けてるぜ!」と落合が茶化せば、「どっちがプロだか分かんねぇなあ!」などと容赦ない野次が乱闘要因・岩本好広から飛ぶ。とはいえ宇野だって前年ベストナインに輝いた超一流遊撃手である。さぞかしプライドが傷つき、対抗心を燃やしたのかと思いきや、ここはやっぱり愛すべきウーやん。「ダメだ。オレじゃ勝てねえ。脱帽だよ。情けねえや」とあっさり降伏したのであった。

 もっともこの辺りの掛け合いは多分に冗談交じりだったとしても、一方でスタンドから冷静に、至って真剣に立浪の守備力を評価していた男がいた。高木守道である。かつてバックトスで鳴らした名二塁手も、立浪のセンスには舌を巻いた。

「チームの中で一番動きがいい。堂々とした動きは、先輩よりもむしろ『こちらがプロ』といった感じ。一級品の楽しみを、立浪に感じた」

 “2代目ミスタードラゴンズ” のお墨付きもあって、2月のベロビーチ行き=一軍帯同は確実視されていたが、星野監督は「みんながそう書くが、そう書かれると、オレはやらんかもしれんぞ。オレはひねくれものだからな」とニンマリ。しかし不敵な笑みの裏では、キャンプ一軍帯同どころではない “ある覚悟” が、既に星野の腹の中では決まっていたのだった。

短命だった「ショート・立浪」

「これで中日のショートは10年は安泰だ」

 立浪がドラゴンズに入団した際、その華麗な守備を目撃した評論家たちが次々に感嘆の声をあげた。しかし、実際はそうはならなかった。1年目のキャンプで痛めた右肩の状態が思わしくなく、2年目は治療のため30試合出場にとどまった。そして5年目の'92年にはセカンド転向と、高校時代からの代名詞でもあったショート守備は、意外にも早い段階で終焉を迎えることになる。

 その原因にもなった「1年目のキャンプ」の怪我について、著書『負けん気』には「練習中、バランスを崩して右手を突いたとき、ギクッと肩に痛みが走った」との記述がある。こうなると、それが具体的にはいつなのか。日付が知りたくなってしまうのが好事家の悪癖というもので、当時の中スポをペラペラとめくっていると見つけることができた。3月5日付、2面の片隅にその記事はあった。

「立浪リタイア」という見出しに、うなだれて歩く立浪の写真。なんでもレッドソックスとの練習試合の7回、ショートゴロをさばいて一塁送球した際に右肩に激痛が走ったのだという。実はその直前にも三塁ファウルゾーンに飛んだ打球を追って転倒し、右肩を激しく地面に叩きつけていたそうで、そのときの痛みが送球時に襲ってきたという経緯だったようだ。

 直ちに途中交代した立浪はアイシング治療をほどこし、とりあえずは事なきを得たようだが、もしこの時じっくりと療養していればその後の野球人生も変わったのかもしれない。ただ、ちょうどこの日は宇野が二塁練習を本格的に開始した初日でもあったため、コンバートを余儀なくされた先輩の手前、なかなか「治療に専念したい」とは言い出せなかったのも無理はなかろう。

 ところで著書には「練習中」とあるが、実際はどうも「練習試合」の中での災難だったようで……まあそんな細かいことはどうでもいいか。

(つづく)