ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

MENU

大きく、優しく、そして熱く

○4-0阪神(25回戦)

「暑かったけど、短かったよね、夏」

 サザンの桑田佳祐が監督を務めた『稲村ジェーン』というカルト映画があるのだが、これはその映画のラストにヒロインの女性(清水美砂)がつぶやくセリフである。映画の評価は散々ながら、サントラに収録された「真夏の果実」「希望の轍」は大ヒット。やっぱり桑田サンは映画より音楽だね、という当然の結果に本人も懲りたのか、それ以降桑田が映画を作ることは二度となかった。

 さて、この映画が公開された1990年にドラゴンズに入団したのが与田剛である。という例によって強引な流れにはなるが、当時の与田といえばチャゲアスのASKA似のトレンディな風貌が女性達に人気を博し、本業の野球でも新人賞を獲得する大活躍。同年放送の月9ドラマ『すてきな片想い』では柳葉敏郎演じる「野茂」の相手役として、みぽりんこと中山美穂が「与田」という名前の役柄を演じるなど、瞬く間に人気選手の仲間入りを果たした。そう、あの頃与田は間違いなく全国区のスターだったのだ。

 ただ、'96年途中のトレード以降は直接的にドラゴンズと関わる機会が少なかったせいか、思いのほか与田には生え抜き選手というイメージが薄いのも確かだ。そんなわけで3年前にドラゴンズの新監督として与田が来ると分かった時も、ファンの反応は決して手放しで歓迎といったテンションでは無く、どちらかといえば戸惑いの方が大きかったように感じる。他に本命と言われる候補がいる中で、なぜ与田なんだ? と。今だから白状するが、私もそう思った一人である。

 この時点でドラゴンズは6年連続Bクラスという暗いトンネルを彷徨っていた。勝ち頭のガルシアに逃げられ、球団の財政的に補強らしい補強も望めない。誰が監督になっても厳しい舵取りを強いられる、いわば火中の栗を拾う形で与田は大役を引き受けた。

 そんな逆境のなかでも与田は前向きなメッセージを発し続けた。目標を問われれば必ず「優勝」と答え、決して卑屈になったり、選手を悪者にするような言葉を口にすることはなかった。その肩幅と同じくらい大きな男気が浸透するうちに、当初の疑念は信頼へと変わり、与田の人柄は「理想の上司」として評価されるようになっていった。

 負けることが常態化していたチームが息を吹き返すまでには、そう時間はかからなかった。就任2年目の昨季はCSが実施されない特殊なシーズンとはいえ3位に滑り込み、実に8年ぶりのAクラスに導いた。エース復権を果たした大野雄大は圧巻の成績で沢村賞を受賞し、オフには確実視されていたFA流出も食い止めることに成功。当初は低かった与田監督の評判は、一躍して大きく跳ね上がった。

波乱と混乱に見舞われた政権

 一方で、波乱と混乱に見舞われ続けた政権でもあった。ワイドショーでも取り上げられた、いわゆる「お前」騒動にはじまり、「代打三ツ間」事件、門倉コーチ失踪、また今年の夏には木下雄介さんの逝去という信じ難い悲報にも直面した。

 そもそも戦後最大の危機とも呼べるコロナ禍を戦った監督として、平時ではあり得ない事態への対処を強いられた。そんな中で上記のようなトラブルや災難が次々と起こったのだから、(自分で蒔いた種もあるとはいえ)その苦心は察するに余りある。

 本音としては「3年間続けただけでも偉い!」と褒めたいところが、プロ野球界はそこまで甘くない。勝てば官軍、負ければ賊軍。あくまで評価の対象となるのは順位だ。3年契約の3年目、与田ドラゴンズはシーズン序盤から歴史的な貧打にあえぎ、リーグ最強の投手陣を擁しながらも5位という不名誉に沈んだ。

 残ったのは、3年間で優勝はおろかAクラスさえも一度しか食い込めなかったという残酷な現実。与田監督は9月末に自ら進退伺を提出したとされているが、どのみち敗軍の将に「続投」の目はあり得なかった。

熱さが消えた3年目

 今、手元に中日スポーツがある。日付は2018年10月16日。球団旗をバックに勇ましく腕組みする新監督と、「攻める野球で優勝」という見出しが一面を飾っている。たしかに当初の与田監督はこの言葉通り、攻めの姿勢を貫いていた。

 前年未勝利の大野雄に170イニングのノルマを課したのもそうだし、開幕戦では不調にあえいでいた京田陽太をスタメンから外し、無名の阿部寿樹を抜擢するなど選手間の競争意識を煽った。よそ見をしていた塁審には鬼の形相で食ってかかり、ある試合では微妙な判定に対して興奮のあまりベンチから飛び出そうとしたところを伊東ヘッドに羽交い締めにされて止められたこともあった。与田監督は優しさの中にも燃えさかる熱さを宿した人物だった。

 だが、今年は幾らか様子が違ってみえた。コロナのリスクを抑制することに注力し過ぎたのか、あるいはレギュラー陣に対して情を抱き過ぎたのか。二軍戦力との入れ替えは極端に少なく、どれだけ負けが込んでもスタメンには代わり映えのないメンバーが並び、根尾昂を除く若手のチャンスは最小限に留まった。

 かつては男気を感じた、選手やコーチを責めないコメントも、無味乾燥とした負け試合のあとはなんだか空虚に響くようになり、ベンチに佇む姿も心なしか以前よりも小さく映った。指揮官から熱さが消え、優しさだけが残ると組織は緊張感を保てなくなる。雪だるま式に膨らむ借金を溶かすほどの情熱は、もう与田監督にもチームにも残っていなかった。

 昨日、最後の遠征へと出発する際に与田監督は集まった報道陣に対して3年間の感謝を告げたという。勇退ではなく、事実上の解任。3位になった去年の今頃は、まさかこんな形で別れが訪れるとは思っていなかっただけに、ツライ。少なくとも私は与田監督が大好きだったのだ。

後世に伝えたい魅力

 世間はすっかり立浪監督率いる来季の話で持ちきりだが、せめて今日くらいは与田監督の最後の姿を目に焼き付けたいと思った。

 ベンチの最前列で腕組みしながら戦況を見守る姿はいつも通り。4-0で迎えた9回裏、3アウト目のゴロをさばいたのはショート根尾だった。就任間もない3年前の秋、自らの右腕で引き当てた若きスター候補生。その根尾が最後を締め括ったのは、なにか運命めいたものを感じずにはいられない。

 試合が終わり、レフトスタンドへの謝儀を済ませると、与田監督は球場に一礼し、静かに通路へと去っていった。

 生え抜きのスター選手でありながら、どこか外様のような扱いを受け、球団のバックアップも十分だったとは言い難い。そんな中でも歯を食いしばって3年間を戦い抜いた与田監督、そして退任するコーチ陣にはひとまず労いの言葉と、感謝を伝えたいと思う。

 それにしても、見たかった。「肩幅61センチの大きな大きな与田監督が今、宙に舞います!」という若狭アナの実況と共に胴上げされる姿とか。涙でくしゃくしゃになりながら、相変わらず自分のことは脇に置いて選手やコーチ、裏方さんのことばかり称える優勝監督インタビューとか、ビールかけで騒ぎまくるキューバ勢のパリピっぷりとか、緊急出版される与田夫人の手記とか……。

 そうした妄想が実現しないまま与田ドラゴンズの3年間が幕を閉じたのは本当に悔しいし、残念でならない。

 

 31年前、『稲村ジェーン』を観たビートたけしが、「暑かったけど、短かったよね、夏」というラストのセリフに対して「長かったよ、バカヤロー」と毒を吐いたという有名な話がある。あるいはこの3年間が長くてつまらなかったと思うファンもおられる事だろう。だが少なくとも私にとっては、久々に夢中になって楽しんだ、あっという間の3年間だった。

 歴史的にみれば5位、3位、5位という成績は凡将以下の扱いになってしまうのかも知れないが、成績だけでは測れない与田監督の魅力を、私は後世に伝えていきたいと思う。与田剛は誰よりも選手に寄り添い、守ろうとした監督だったと。

 大きく、優しく、そして熱い監督だったと。

 

完(木俣はようやっとる)