ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

MENU

別れの季節

 平成を彩った怪物の引退を大きく報じた今朝の中日スポーツ。1,2面にはその栄光と挫折にまみれた足跡、引退会見の一問一答、そして王会長や与田監督といった関係者のコメントに加え、横浜高校の後輩にあたる柳裕也の手記が載った。

 ドラゴンズの在籍経験があるとはいえ、他球団の一選手の引退を同紙がここまで大々的に取り上げるのは異例のことだ。一般のニュース番組やワイドショーでも時間を割いてこの話題に触れているのを目にすると、松坂大輔という選手は、もはや “平成” という時代そのものを象徴する文化的アイコンだったのだとあらためて感じた。

 最後のマウンドで投じたのは、118キロすっぽ抜けのボール球。全盛期の姿からは想像だにできないようなその “全力投球” は、怪物が灰になるまで燃え尽きたことを示す何よりの証明だった。甲子園、メジャーリーグ、そしてプロ野球と、それぞれの舞台で鮮烈な記憶を刻んだ怪物の引退と共に、ひとつの時代が幕を降ろした。平成も遠くなりにけりーー。

ぬかるみに家を建てた名コーチ

 惜別の想い溢れんばかりの紙面の、片隅も片隅。うっかり見落としてしまいそうな3面の雑観に、もう一つの別れはひっそりと載っていた。

「伊東、阿波野両コーチ退団」

 与田監督の右腕として働いた伊東勤ヘッドコーチ、阿波野秀幸投手コーチが、成績不振の責任を取って退団を申し入れ、了承されたという。二人合わせてわずか12行のあまりにも素っ気ない記事は、勝負の世界の厳しさを物語っているかのようだ。

 だが成績不振とは言うものの、阿波野がチームにもたらした功績は、こんなにもあっさりとやり過ごしていいものではない。

 阿波野が就任した2018年オフの時点で、ドラゴンズが抱えていたのはリーグで最も頼りない投手陣だった。リーグ最下位の防御率4.36という数字に加え、この年13勝の勝ち頭、オネルキ・ガルシアも契約の齟齬でチームを去ることが決まっていた。かつてのエース・大野雄大はシーズン1勝もあげることができずに死地をさまよい、起用法が固定されないブルペン陣は、投げれば打たれを繰り返していた。

 戦力不足は誰の目にも明らかで、前年なんとか6勝をマークした松坂の名が開幕投手の候補として真剣に挙がるほどだった(キャンプ地での思わぬ怪我でご破産になったが)。

 阿波野が託されたのは、再建というよりも、ぬかるみに家を建てるような途方もない作業だった。それでも阿波野は愚痴ひとつ言わず、火中の栗を拾う役割をむしろ使命だと受け止めていた。

「この時期にコーチを託されることに意味がある。何かを変えていって結果を残したいという気持ちはすごく強いので」

 こんなにも頼もしい所信表明は聞いたことがない。そして阿波野はこの言葉どおり、選手たちの意識から技術、役割まで全てを激変させ、3年後にはリーグ最強の投手陣を築きあげた。有言実行、まさしく結果を残したわけだ。みごとな手腕である。間違いなくドラゴンズ史上でも五指に数えられる名投手コーチだったといえよう。

 ただ、プロ野球のスタッフは一蓮托生。チームの “頭” が交替する以上は、残した結果の如何を問わず、部下たちも連帯責任を取るのがこの世界の掟である。ましてや阿波野や伊東は、与田監督が自前で招聘した外様の人間だ。生え抜き贔屓の強いこの球団では、居場所が無くなるのも致し方ないのかもしれない。退団を報せるあまりにも小さな記事は、そうしたドライな体質の表れのようにも思える。

さよならだけの人生に

 一般的に別れのシーズンといえば春だが、プロ野球の別れは大抵秋にやってくる。それは選手だけでなく、首脳陣も同様だ。ただし、惜しまれながら引退する選手とは違い、コーチはいつだってひっそりと去っていく。おそらく阿波野、伊東両コーチも最終戦のゲームセットと共に、特にコメントも残さずにユニフォームを脱ぐことになるだろう。

 管理職なんてそんなものさと言われれば、その通りなのかも知れない。「さよならだけが人生だ」(井伏鱒二『勧酒』)という言葉もあるように、人生に別れは付き物だ。いちいち感傷的になっても仕方ないが、それでも3年間を共有したファンとして、せめてその功績は忘れずにいたいと思う。

 残る人、去る人。すべてのスタッフに、今はただ3年分の感謝を伝えたい。

(木俣はようやっとる)