ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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平成のパ・リーグ、これにて完結

「今夜はお伝えするニュースが山程あるのですが……」

 ニュースステーションのオープニングで、久米宏が野球中継の延長を伝えてから丸33年。当時放送されたロッテ対近鉄のダブルヘッダーは、プロ野球史に残る悲劇的な結末を迎えた。

 俗に言う10.19はその年のペナントレースにとどまらず、昭和のパリーグのクライマックスの側面も持っている。

 在阪の老舗球団だった南海と阪急がその年限りでの身売りを相次いで発表。衝撃的な球団売却は、昭和のパ・リーグを代表する選手の去就にも大きな影響を与えた。

 南海の主砲・門田博光は球団と共に関門海峡を渡らず、阪急の血を引くオリックスに移籍する形での関西残留。阪急が誇る二代スターの山田久志と福本豊は、オリックスのユニフォームに袖を通すことなくグラウンドに別れを告げた。こうしてパ・リーグは昭和と決別する形で新時代を迎えていく。

新たなる王道

 それから33年後の “10.19” は、平成のパ・リーグの終焉だった。あの松坂大輔がマウンドに別れを告げる時がやってきたからだ。

 思えば「平成の怪物」が歩んだ道は、現在のトップランナー達のロールモデルだった。かつてのパ・リーグは荒くれ者が集うコロッセオ。しかし大衆の関心を集めたのは、ONがいる銀幕さながらの舞台。決闘はやはりアンダーグラウンドのものにすぎなかった。しかし横浜高校を春夏連覇に導いた甲子園のヒーローは、そのような世界を変える一人となっていく。

 当時の松坂は隆盛を極める現在の礎を築き、国際化という時代の流れにも乗った時代の寵児だった。五輪、WBCをプロ野球選手として経験し、MLB移籍を果たした最初の日本人投手でもある。特に若干二十歳で迎えたシドニー五輪は、予選から全日本入り。本大会でもエースとしてチームを牽引した。

 野球においてはプロ解禁後初の五輪。メダル獲得はならなかったが、「平成の怪物」はプロアマ混成チームの象徴となった。選手派遣の段階からセ・パ両リーグの足並みが揃わなかったチームの矢面に立つ姿は大黒柱そのもの。

 ドラフト会議直後、希望球団ではなかった西武が交渉権を獲得した際には、日の丸を背負うために社会人行きを示唆したこともある。今ではプロ入りする選手が、当たり前のように近未来の「侍ジャパン」入りを公言する。その先駆けは五輪=アマチュアではなくなる時代に、日本の野球界を背負った若者といっても過言ではない。

光と影

 パ・リーグにとどまらず、プロ野球界のエースとなった男は数多の栄光を築き上げた。新人王、沢村賞、日本一……WBCでは第1回大会からの連覇を果たし、2大会続けてMVPに輝いている。

 一方で、誰よりも敗者としての姿が絵になった。新語・流行語大賞の大賞に選ばれた「リベンジ」は、ロッテのエース・黒木知宏に投げ負けたからこそ生まれた台詞。

 南半球の地でメダルを逃した日韓戦、“いてまえ” の勢いに飲み込まれた中村紀洋のサヨナラ弾、そして2004年の日本シリーズ第2戦で立浪和義が放った渾身の一打。一敗地に濡れた名場面を挙げたら、枚挙にいとまがない。

 これらは相手が松坂だったからこそ生まれたもの。ライバル達の力を極限まで引き上げる魔力が彼にはあった。一方で味方にとっては、チームの運命を委ねることができる稀有な存在。まさに「カリスマ」だ。

 ただ、誰よりも大きなエネルギーを出し続けた肉体は米国で悲鳴を上げた。選手生活の後半は終わりなき怪我との戦い。2018年には中日でカムバック賞を受賞したが、その後は再びリハビリ生活が待っていた。

 そして迎えた最後の日。対戦相手はデビュー戦と同じ日本ハム。対峙する打者は背番号8の左打者だ。それは奇しくも衝撃的な三振を奪った片岡篤史を彷彿とさせた。しかし打席に立つのは長身の片岡ではなく、身長171センチの近藤健介。

 この間に日本ハムは北の大地に住処を移し、西武のユニフォームからは水色が消えた。1999年からの22年でパ・リーグの景色は様変わりしている。

 代名詞のワインドアップは何ら変わりないが、投じたストレートは “あの時” の155キロから40キロ近く遅い。「怪我の代償」や「衰え」を指摘する方々もいるだろう。それでも私は訴えたい。このストレートは「平成の大エース」が命を削って投げ続けた勲章であると。

(K-yad)

 

【参考】

横尾弘一『オリンピック 野球日本代表物語』ダイヤモンド社(2008)

山室寛之『1988年のパ・リーグ』新潮社(2019)