ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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「立浪監督」待ちわびた瞬間が現実になった

「立浪監督」

 いったい我々は、これまで何回この4文字を思い浮かべて来ただろう。監督が変わるたびに、今度こそ新監督は立浪和義になるのではないか。そう言われ続けて、気づけば10年もの歳月が経った。“待望” どころではない。待ち望みすぎて、半分あきらめていたほどだ。

 昼休憩を終えてスマホに目をやると、高校時代の友人から久々にLINEが届いていた。

「祝・立浪監督!」

 短文ながら一目で興奮が伝わってきた。同時に、遂にこの日が来たのかという感慨が胸の奥から湧き溢れてきた。添付されていたアドレスのリンク先は中日スポーツだった。中日ファンなら大本営発表の持つ意味ーーそれが決定事項の報道であることは誰もが知る常識だ。冷静になってもう一度記事をよく読むと、まだ「受諾」したわけではなく、「要請」した段階だという。

 しかし、少なくともドラゴンズの長い歴史の中でここから「拒否」した例は聞いたことがない。事実上の立浪監督誕生。そう断言しても、差し支えはないだろう。

信じ、待った、長かった12年間

 それにしても、である。この瞬間が実現するまでに、まさかこんなにも長い時間を要するとは、当時は予想だにしていなかった。2009年の現役引退後、一旦外から野球を勉強し、満を持して落合監督の後を継ぐものだと、それが球団に敷かれた既定路線だと誰もが信じて疑わなかった。

 事実、ドラゴンズの監督が変わるたびに、メディアで報じられる候補者には必ず立浪の名前があった。そのたびにファンは、背番号3が再びナゴヤドームに帰ってくる姿を想像し、胸を躍らせた。ところがそんなファンの期待を知ってか知らずか、何かしらの事情により「立浪監督」の誕生は見送られ続けてきた。

 本来なら真っ先に監督になってもおかしくない立浪がスルーされ、現役選手の谷繁元信が兼任という形で監督に就任したのは、客観的に見てもかなり不自然な順序だった。

 この頃から、「立浪は過去のスキャンダルが原因で、白井オーナー在任中は監督になれないのでは?」という噂が頻繁に聞かれるようになった。どこまでが本当なのか。あるいは根も葉もないデタラメなのか。おそらく我々市井のファンが真実を知る日は、今後も訪れることはないだろう。ただ、候補に挙がっては消えを何度も繰り返せば、穿った見方をするなという方が無理な話だ。

 風向きが変わり始めたのは、2019年の12月。名古屋市内のホテルでおこなわれた「野球殿堂入りを祝う会」に、政財界、野球界、芸能界などから総勢500人が出席。その衰えぬ影響力を知らしめると共に、井端弘和、森野将彦といった現役時代の仲間たちが、次々と「また一緒にユニフォームを着たい」と壇上からエールを贈ったのだ。

 この時の中日スポーツには、立浪と白井オーナーのツーショットという、いかにも思わせぶりな写真が一面に掲載された。21年もの長きに渡る権力の座から白井オーナーが退いたのは、この二か月後のことだった。

 今年の春キャンプでは臨時コーチの肩書きで、現役時代以来となるドラゴンズの練習に参加。精力的に京田陽太、根尾昂らを指導する姿は連日話題の的になった。長い年月をかけて徐々に、球団と立浪とを隔てる冷たく重たい雪が解けていくのが感じられた。

 そして去る10月3日、日刊スポーツが「立浪監督」の可能性に言及。低迷するチーム状態からみて任期満了を迎える与田監督の続投は考えづらく、次期監督の候補として直近で臨時コーチも務めた立浪の名前が挙がるのは、ごく自然なことだった。しかし、はやる気持ちの一方で、簡単にはいかないだろうな、という冷めた思いもファンは抱いていた。

 また今までのように期待だけさせておいて、結局は違う誰かが就任するのだろうと、長年の経験から達観したように球団を観察する習性が、中日ファンには付いていた。

 だが、今回は違った。立浪が13年ぶりにドラゴンズのユニフォームに袖を通す。そして、戦いの舞台に戻ってくる。待ちわびた「立浪監督」が、いよいよ現実のものとなるのだ。正式な受諾を経て、就任発表は26日のシーズン最終戦終了後になる見通しだという。会見の席で何を語るのか。どんな言葉でチームを鼓舞するのか。今から楽しみで仕方がない。

「これから僕は一人なんだから、今日は一人で行くよ」

 33年前の冬、母の同行を断り名古屋行きの新幹線で単身旅立った18歳の青年が、長い歳月を経て遂にドラゴンズを率いて戦うことになる。三代目ミスタードラゴンズ、その大河ドラマの最終章が、いよいよ幕を開けたーー。

(木俣はようやっとる)