ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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中日ファンのための読書感想文⑤『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』

「本、読んでますか?」

 若者の活字離れが叫ばれて早幾年。町からは書店が消え、電子書籍も今ひとつ定着しているようには思えない。今や一部好事家の嗜みに成り下がった読書だが、かつては映画と並ぶ最高のエンターテイメントだったのだ。楽しいだけでなく、文化的な香りも漂う知的な娯楽。未曾有の事態に見舞われた今だからこそ、持て余した時間を使って良質な本を読もうではないか。

5冊目『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』

 今年で落合博満がドラゴンズの監督を退いて10年が経つ。その節目だからなのか、「落合本」が相次いで発刊されている。落合本人によるエッセイ集『戦士の食卓』に、落合シンパのねじめ正一氏が綴った『落合博満論』。そして、今回紹介する『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』がこのほど書店に並んだ。

 著者は鈴木忠平氏。落合政権時に日刊スポーツのドラ番記者を務め、Number編集部を経て、現在はフリーで活動している。鈴木氏の著作といえば『清原和博 告白』が話題を呼んだが、本作もすでに同じぐらいかそれ以上の反響があるようだ。

 本作を手に取る際に気づくのが、分厚さ。480ページもの量があり、その厚さは一般的な電源プラグの幅に匹敵する。書影も不気味さをあらわすためか黒を基調とし、落合監督の無表情な写真が浮かび上がるかのよう。初見で圧倒されるのは間違いなく、ぜひ実物を手に取ってほしいが、抵抗のある方は電子書籍で読むことをオススメする。

読むポイント① 視点人物で読む

 本作を読み進めると、さまざまな登場人物が出てくる。当然、彼らの立場や考え方によって、落合との距離感は異なる。それを踏まえた上で、私なりに読むポイントを考えてみたい。

 まず1つ目は「視点人物で読む」。12章からなる本作には、1章に必ず1人「視点人物」、すなわち主役が存在する。福留孝介、荒木雅博といった当時の選手をはじめ、球団フロントの中田宗男や井手峻にも照射が行き届く。それだけ落合に何かしら考えさせられた人は多いのだろう。

 例えば、第1章「川崎憲次郎 スポットライト」にはこんな一節がある。

 川崎は自分でも驚いていた。落合の問いに即答したことにだ。理性では、なぜ俺なのかと疑問を感じている一方、心の奥底に、そのマウンドで投げるべきだと考えているもう一人の自分がいた。
 俺は誰かから、こう言われるのを心のどこかで待っていたのかもしれない……。(p30)

 世間をあっと言わせた2004年開幕投手の件である。それまでの3年間一軍登板がなかった川崎が、落合からの打診に驚きながらも「やります!」と即答したことで、自分がスポットライトを渇望していることに気づくのだ。

読むポイント② 視点人物の周辺から読む

 1章につき30~50ページぐらいの分量なので、当然視点人物だけで話が進むわけではない。視点人物の周りの人間が印象的なくだりも出てくる。

 例えば、第11章「トニ・ブランコ 真の渇望」にはこんな一節がある。

 しかっめ面でベンチに引き上げてくるブランコを見つめながら、桂川は黒い革の手帳にペンを走らせた。打席に対した投手が誰であったか、カウントや球種、打席結果の詳細を残しておくためだった。通訳として必ずしも義務ではなかった。本人や他の誰かに、やってほしいと求められたわけでもなかった。ただどういうわけか、ブランコを見ているうちにそうしなければという気になったのだ。(p397)

 来日1年目で本塁打王を獲得したブランコが、3年目に不振に陥った際のエピソード。「桂川」は、今もドラゴンズに在籍し、ラティーノの良き理解者でもある桂川昇通訳のことだ。試合後に居残り特打を行うブランコに何とか尽力したいという気持ちから生まれた行動が、彼の毎打席のメモをとり、寄り添い理解すること。桂川通訳もまた、最前線で戦うプロの1人なのだと思い知る一節だ。

読むポイント③ 記者視点で読む

 本作の特徴として、著者である鈴木氏の “一人語り” の多さがある。うだつの上がらない「ザッカン記者」のレッテルを貼られた若手記者が、どのように落合時代を代表する番記者へと成長していったのか。読み進めるうちに、その過程を追っている気分にもなった。

 例えば、第2章「森野将彦 奪うか、奪われるか」にはこんな一節がある。

 記事には自分の署名があったが、紙面のどこにも自分はいなかった。
 これはデスクの落合観である。では、一体、自分は何者なのか?
 落合に向けてというより、自分自身に向けての呵責(かしゃく)で胸をかきむしりたくなった。
 ただ誰かに同調し、頷くことをやめて、落合について考えるようになったのはそれからだった。(p84)

 2005年、タイロン・ウッズの暴力事件で自分の意に沿わない見出しを付けられたことへの怒りである。それは見出しをつけたデスクと整理部ではなく、自らへの怒り。同じ年に落合から「ここから毎日バッターを見ててみな」と “施し” を受け、取材活動に取っ掛かりが生まれたのも関係している。

“ひよっこ” であることを痛感し、覚醒していく――。ザッカン記者が唯一無二の記者に上り詰める第一歩はここだった。

読むポイント④ 落合視点・落合家視点で読む

 もちろん、落合本人の言葉や行動も本作には多く出てくる。

 一緒にタクシーに乗り込んだ鈴木氏に対して「で、今日は何を訊きにきたんだ?」と問いかける場面は、余裕で脳内再生ができる。決して雄弁ではなく、人前では俯きながら歩く落合は理(ことわり)の人である。一方で、時折見せる情や本音が心に刺さる。

 例えば、第6章「中田宗男 時代の逆風」にはこんな一節がある。

 落合は場のしんみりした空気を穿(うが)つように言った。
「俺が本当に評価されるのは……俺が死んでからなんだろうな」
 その口調に悲壮感はなかったが、言葉が含んでいるものはあまりに悲しかった。そのためだろうか、落合を見つめていた夫人と長男の目に、光るものがあった。落合はそれに気づくと、困ったように笑って、またグラスをあおった。(p241)

 いわゆる完全リレーで日本一を勝ち取った翌年の正月。「非情の指揮官」と世の中の評価が決定づけられ、落合への逆風が吹き始めた。恩師・稲尾和久氏を亡くしたのもこの頃だった。それを踏まえて発言を読むと、とても切なくなる。

 また、引用にも出てきたように、文中には落合の妻・信子さんも度々登場。なかなか本音を明かさない落合に代わって、その時々の心情や落合家の出来事などを著者に語っている。これがまた取材にも活きていくのだ。本人だけでなく、家族も一緒に戦っているのだと思い起こさせてくれる。

余力あれば当時の映像や記事も

 以上が私なりの読むポイントだ。章の中でも話や登場人物が変わっていくので、読む側で視点を定めたほうが読み進めやすいと思った。すでに読了された人もいると思うが、もし機会があれば、提示したポイントを意識して再度読んでいただければ幸いだ。

 そして、余力があれば、当時の映像や記事を見返すことをオススメしたい。物語の頭への入り方が劇的に変わってくる。下記の記事は当時読んで落涙したのを覚えている。

www.nikkansports.com

 本作を読むと、正直今のドラゴンズと比べてしまうこともあると思う。それはシーズン中でもあるし、避けられない。ただ、個人的には落合がドラゴンズの監督に戻ってほしいとは思わない。それは高齢になった落合に対しての心配があるし、ドラゴンズ球団も歴史を無理やり戻すことになりかねないからだ。

 時代は確実に進んでいる。この評伝をもって、監督・落合博満は正当に評価されるものだと確信し、更新せずとも「それで良いじゃないか」と思っている。(ikki)

books.bunshun.jp