ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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福留孝介と僕のこと

こんにちは、ikkiです。今回は『文春野球』のフレッシュオールスター応募作を公開します。

残念ながら表には出なかったので、ここで成仏させてください……。

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 2007年11月1日、中日ドラゴンズ53年ぶりの日本一。史上初の“完全リレー”達成で、ナゴヤドームは割れんばかりの歓声に包まれた。

 だが、一抹の寂しさも覚えた。背番号「1」が歓喜のど真ん中にいない――。

 この1ヶ月後、福留孝介はFA宣言を行使してシカゴ・カブスへ移籍。9年間「1」を背負い続けたヒーローとドラゴンズファンの蜜月は、突然幕を閉じた。

首位打者獲得の年に“ファン”と自覚

 打って、走って、守って――外野手転向後の福留は僕の憧れだった。

 当時の僕は名古屋近郊に住む中学3年生。野球部ではとにかく打つこと一点張りで、走塁面や守備面はお世辞にも上手ではなかった。本当は、福留のように何でもこなせるオールラウンダーになりたかった。自他ともに認める不器用ゆえ、器用にこなせる人に憧れた。

 しかし、そんな僕にも転機が訪れた。

 当時の福留が取り組んでいたように、打つ時に軸足の左足に体重を乗せることを意識したら、“引っ張り専門”だった打球が左右にまんべんなく飛ぶように。強打と巧打を状況に応じて分けられるようになった。大きな大会でも結果を残したことで、雑誌に有望選手として載せてもらい、強豪校から誘いも来た。福留のおかげで良い思いをさせてもらった。

 プレー以外の面でも、美術の授業で福留のバッティングフォームを模写。技術科の授業では福留を模したスタンプのようなものを作った。

 僕は間違いなく、背番号「1」に魅せられていた。

高3の応援歌事件――僕も福留孝介になりたかった

 高校の進路は悩んだ挙句、強豪校ではなく公立の進学校を選んだ。当時は試合に出られないことを恐れ、下級生から実力を発揮できそうなところを選択したつもりだった。

 だが、高校野球はそんなに甘くなかった。1年夏からベンチ入りさせてもらっても、なかなかレギュラーポジションを奪えない。「軸足打法」は硬式でもある程度は通用したものの、一定のスピード以上になるとついていけず、長打を打てても率を残すことはできなかった。

 そして、高3になった05年、最後の夏を前に「事件」は起こった。

 僕の高校では当時、打席時の応援歌の希望を出すことができた。当然、福留の応援歌を希望する。そこまでは良かった。だが、出来上がったのは勇ましい「すわこそゆけの命に~♪」ではなく、マイナー調の「燃え上がるこの胸に血潮沸き立たせ~♪」。かつてドラゴンズに所属した本塁打王・大豊泰昭の応援歌だった。

 ブラスバンドとの窓口になっていたチームメートがひと言、「お前は福留じゃなくて大豊だ」とケラケラ笑う。長距離砲として見てもらえるのは嬉しいけど、思い描いていたのとは違うわ、ちくしょう――。

 最後の夏、バットが湿ったのは自明の理だ。福留のようなスペシャルな打者になれなかった悔しさが今も残る。

10.10の決勝打、やっぱり最高のバッターだ

 福留になれなかった悔しさを何とか乗り越えて、僕は2006年に上京。大学生として新生活を始めた。高校時代は投手も兼任していて、左肩の状態に不安を覚えたので、野球は「見るもの」に切り替えた。

 入学から半年後の10月10日、火曜日。優勝マジック1のドラゴンズは巨人との試合に臨んだ。敵地・東京ドームでの試合だったが、スタンドはドラファンで埋まっていた。当然、僕も授業とサークルはほどほどにドームへ。胴上げを見やすいようにと、mixiを通じてできたドラファン仲間が三塁側2階席の最前列を押さえてくれていた。

 3-3の同点で迎えた延長12回表、1アウト満塁。点を取らないと胴上げがなくなる状況で、福留がバッターボックスに立った。総立ちのスタンドは3曲のチャンステーマをエンドレスで歌い続けている。

 世界で一番好きな野球選手が決めてくれる――。僕はもう、祈るしかない。

 すると、カウント1-1からの3球目、祈りを乗せた打球はセンター前へ! 勝ち越しだ!

 福留は一塁ベースを回って、拳を突き上げる。何度も歓喜のベンチに向かって応える。僕は我を忘れて、周りの仲間たちともみくちゃになって喜びあった。優勝に導く1点を背番号「1」がもたらしてくれた。やっぱり、福留孝介は最高だ。

福留がやり残したこと

 月日は流れて、2021年。福留は14年ぶりにドラゴンズに帰ってきた。

 退団後はMLBで5年、阪神で8年プレー。44歳、球界最年長選手としての古巣復帰だ。背番号は「1」ではなく、「9」になった。

 三拍子揃うスーパースターだった「1」の頃と比べて、「9」の福留はあの頃と変わった部分と変わっていない部分、そのどちらも見受けられる。昔はフル出場が当たり前だったが、今は代打の切り札的存在に変わった。一方、狙いすまして一振りで仕留めるところや卓越した状況判断は、あの頃から全く錆びついていない。

 気づけば僕も33歳になっていた。福留に憧れ夢破れた野球少年は、野球やスポーツを「伝える」方向に活路を見出した。社会人として、福留のようなオールラウンダーになりたいともがいているけれど、そんな器用に立ち回れない。人生を重ねて、大人になって、環境に変化はあっても、本質的には変わっていないようだ。

 多くの名声を得てきた福留にも、一つやり残したことがある。それは「日本一に導く」こと。実は、阪神時代を含めて3度の日本シリーズ出場で、日本一に輝いたことは一度もない(※04年、07年はケガのため欠場)。キャリアの最終盤に帰ってきた一番の理由は、「やり残したことを無くす」ためではないか。

 06年に優勝へ導く一打を放ったように、日本シリーズで日本一を決める一打を放てば、長年見てきたファンとしてこれ以上望むものはない。

 

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「成仏させてください」という本人の謙遜とは裏腹に、このコラムは『文春野球フレッシュオールスター』にて「ベンチ入り賞」を受賞した。

惜しくも本戦出場とはならなかったが、氏の福留孝介へ対する深い思い入れは十分に文春野球編集陣にも伝わったと思われる。この場を借りて祝意を伝えたい。おめでとう!

bunshun.jp