ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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点と線

 野球中継を見ていると、このようなやり取りを耳にすることがある。

 実況「5回裏2アウト二塁でピッチャーが打席に入ります。1-0というスコアですが解説の○○さんいかがでしょうか?
 解説「リードも1点だけですし、ここは切り札の××選手を代打に出して追加点を取りにいくべきだと私は思いますね

 その次の守備で先発投手は連打を浴び、ノーアウト一、二塁のピンチを作りマウンドを降りた。

 実況「マウンドには△△が上がりました、このピンチを防げるでしょうか
 解説「こうなってくると先発を続投させる意味はあったのかなと思いますよね
 実況「○○さんご指摘のように先程代打を出すべきだった、と

 実際にあったシーンを切り出したわけではなく、あくまでも架空の状況であることをご理解頂きたいが、どこかで実際の試合が頭の中に思い浮かぶことはあるだろう。この場面、実況も解説も「点」で野球を見ていると私は思う。
 「点」とは、単体のイベントのことであり、この例で言うと、「投手が打席に立った点」であり、「ピンチを作って投手交代をした点」である。

 実際の野球の試合はプレイボールからゲームセットまで一本の「線」で繋がっている。もっと言うとシーズンインからオフシーズンに至るまでの長い長い「線」になっている。

 「点」がどのように試合の「線」を敷いていくのかを考える、首脳陣の役目は非常に重要だ。

 私は以前、ある球団で監督を務めていた人に「采配」について聞いたことがある。そこには、我々の考えに遠く及ばないところまで頭を働かせている監督業の難しさを知ることができたので、その難しさのほんの一部を伝達しようと思う。

選手交代の「点と線」

 首脳陣は、どのタイミングで選手交代を考えるのか。先ほどのシーンを例にして考えてみたい。
 少なくとも4回裏が終わる頃には投手に打席が回る可能性があるので、ある程度の方向性を見出していなければいけない。

 選手交代を決める「点」と、選手交代を告げる「点」にはラグがあり、そのラグの間にどういう風に試合が動くかによって選択肢を複数想定し、最適と思われる選択を見定めなければいけない。

 つまり、選手交代を告げるタイミングにはもう既に次の手のことを考えており、その決定については幾分前に決まっている。

 「パワプロ」や「プロスピ」のようなゲームであれば、交代の直前にボタンを押してタイムをかけ、続投か代打か、また誰を代打に出すかをじっくり時間をかけて「点」で考えることができるが実際はそうはいかないのだ。

・5回表までの投球内容や球数
・過去の6回以降の投球傾向
・相手打線の打順の巡り
・自陣で投球練習を行っている選手の仕上がり具合
・連投になる選手は誰で前日何球投げているか

 

 といった過去のイベントの「点」の繋がりで出来上がった「線」を見るだけでなく、

・どういうアウトカウントとランナーの有無で代打にするか
・代打を出す選手は切り札で良いのか
・代打を出した選手はその後守備に就かせるか
・代打を出さなかった場合は投手の準備はどうさせるか
・代打を出した場合、6回以降をどういう投手でつなぐか
・打順はどこに入れるか
・その後の展開で守備固めはどうするか 

 といったこの試合の今後の「線」も同時に考えておかなければいけない。

 なおかつ

・明日の先発投手は前回何イニング、何球投げているか
・今日このあと投げる選手は誰が明日も投げられるか 

 といった、明日以降の「線」も見据えて、展開が刻一刻と動く中で先発投手を5回で下ろすかどうかの決断をしなければいけないし、その決断が終わった瞬間には次の決断について考えておかなければいけない。

 システマチックになった現代野球では監督と各コーチ陣の連携が不可欠で、監督の思いつきだけで選手を動かすと大変なことになってしまう。

「たら、れば」は禁物か?

 野球に置いて『「たら、れば」は禁物』という言葉がある。『もしあの場面で打ってい「たら」』、『もしあの打者を打ち取ってい「れば」』といった論調の際に禁忌として使われる。

 たまに新聞記事で野球評論家が「あの場面、結果的に得点に繋がったものの送りバントはしっかり決めておかなければいけない」というような指摘をすることがあるが、あれも「たら、れば」の一種だと個人的には思う。
 「送りバントをしっかり決めていればもっと楽に得点に繋がったのに」とも解釈できるからだ。だが、この場合送りバントをしっかり決めたからといって得点に繋がったかという根拠はどこにもない。送りバントの失敗という「点」があってこそ得点という「点」が生まれ、線で結ばれているからだ。

 では、本当に「たら、れば」は禁物なのか?現場目線で考えてみるとそうとは限らない。
 

 過去の点に対する「たら、れば」を嘆くことは何の生産性もないが、将来の予測に対する「たら、れば」は戦略上非常に重要だ。

 『ここで打席の選手が打っ「たら」、次の打者には代打を出す』から、交代要員の選手には準備をしてもらおう。『次のイニングで相手投手に左打者の代打が出「れば」、左のワンポイントで勝負する』から、ブルペンコーチにはその旨を伝えよう。
 というように「たら、れば」がないことには選択肢は生まれず、仮想線が敷かれる数が少なくなる。試合巧者と呼ばれる名将は、恐らくこの『将来における「たら、れば」』の引き出しがとても多く、相手監督の試合展開を読むのも上手いのではないか。そしてコーチスタッフ、選手もその頭脳についていけているのではないかと思う。

 野球観戦時は自分なりの「たら、れば」を想定しながら展開を読み、テレビ観戦時は「点」または「線」で解説しているかを見極めながら試合に没頭してみると、新たな目線で野球を見ることができる。

 「なんであの場面で代えぇせんのだ、わかっとれせんがぁ首脳陣!」と思ってみたら、監督になった気分で1回表からゲームを読んで、どのコーチに誰をどうするように交代の指示をするかをシミュレーションしてみると面白いかもしれない。

(yuya)