ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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回想記 ~はじめて球場に行った日~

 初めて生でプロ野球を見た日を覚えていますか? 年月日、先発投手、試合結果……。人の数だけ思い出があって、たとえ同じ日の出来事であったとしても、抱く印象はそれぞれ違うものだったりする。今日は私の「球場プロ初観戦」を振り返ろうと思う。

 古い話で恐縮だが、私のプロ野球初観戦は1995年まで遡る。

 

1995年のおさらい

 「10.8決戦」で巨人に破れた1994年のオフ、近鉄から金村義明をFAで、ロッテからはメル・ホールを獲得し更なる打線の強化を図った。前年首位打者のアロンゾ・パウエル、本塁打・打点の二冠に輝いた大豊泰昭に加え、パ・リーグから実績抜群の強打者を迎え入れた1995年の中日は……散々だった。

 金村とホールは開幕から不振を極め、対戦カードが一回りしたときの打率は金村が.087、ホールが.154。金村はこの時をして 「打率が名古屋の市外局番(052)まで下がった」 と笑いのネタにしているが、打倒・長嶋巨人を達成すべく獲得した選手たちの数字がこれでは、当時のファンからしたらたまったものではないだろう。

 投手陣も今中慎二が八面六臂の活躍を見せた以外は軒並み打ち込まれた。さらなる活躍を期待され抜擢された野口茂樹、古池拓一、佐藤秀樹、落合英二の4人は合計で15勝38敗。チーム防御率は前年の3.45から4.75へと大幅に悪化してしまった。

 大豊、パウエル、中村武志といった主力野手も度々怪我で戦列を離れるなど、シーズンを通して満足な戦力が整うことはなかった。

 

 そんな中、指揮を執って4年目の高木守道監督は6月2日で休養。最後の試合も審判に抗議して退場宣告を喰らい、グラウンドから去ってしまった。後を継いだ徳武定祐代行も状態を改善できず、オールスター休みを挟んで島野育夫二軍監督が一軍を纏めることになった。

 結果、この年は50勝80敗。10月の消化試合で阪神を追い抜いて5位になるのがやっとだった。

 

初観戦はライトスタンドから

 閑話休題。7月14日金曜日、初めての野球観戦の日が訪れた。

 学校から帰ってすぐに親族6人でナゴヤ球場へ。チケット売り場で当日券を買い、今はもうくぐることのできない外野ゲートから広がった野球場の光景は、四半世紀経った今でも鮮明に覚えている。

 相手は広島。「UFO投法」で話題を博したルーキー・山内泰幸や3桁の背番号、ロビンソン・チェコなどの新戦力に加え、野村謙二郎がトリプルスリーを達成するなど躍進を遂げた年だ。

 試合は先発の落合が初回から広島の3番・音重鎮にバックスクリーンへの一発を浴びると、4回には江藤智、浅井樹にも一発を浴び4回4失点。続く2番手の野口は音に2本目の2ランを浴び、5回の表を終わった時点で6-0と大量リードを許す展開になっていた。

 5回の裏に鳥越裕介のホームランで1点を返した。試合展開には何ら影響はない1点だが、生で見る自チームのホームランは少年の心を揺さぶり、感動を与えるものとなった。ナゴヤ球場に舞った紙吹雪がより気持ちを昂ぶらせた。

  とはいえ、全体を通してみると9歳の少年にはとてつもなくつまらない試合だ。いつしか野球の展開そっちのけで祖父の食べる焼き鳥やうどんを欲しがり、球場内を駆け回り応援団のお兄さんたちに 「優しく」 注意されたことなどが記憶に残っている。

 6回、キク山田が野村に3ランを浴び、9-1となったところで球場からはさようなら。こうして私の初観戦は途中退場で幕を閉じた。

 

かわらないこと

 そんな大敗の試合でも今がある。当時のように、純粋無垢な気持ちで野球を観ることはもうできないだろう。球場では静かに試合展開を読み解くことを楽しみとしている。どれだけリードを許しても試合が終わるまで席を立つことはないし、ワンプレーに喜怒哀楽を出す性格でもない。

 それでもゲートをくぐって球場を見渡すあの瞬間だけは、9歳のときに見たナゴヤ球場で見た時と同じで、これから始まる野球に心を躍らせる。

 

だから僕たちみんな、野球場へ行こう
(yuya)