ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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滝野の長い夜

●1-4阪神(22回戦)

 プロ初スタメン。プロ野球の門を叩いた全ての打者がまず目指すべき目標である。そのチャンスを今日、滝野要がつかんだ。入団2年目。大垣日大高ではあの阪口慶三監督の教え子として夏の甲子園にも出場。大阪商業大を経てドラフト6位指名で中日の一員となった。

 多くの選手が一度も一軍に上がることなくユニフォームを脱ぐ下位指名にあって、大卒とはいえ2年でスタメンをつかんだのはなかなかのスピード出世と言えよう。25日のヤクルト戦ではプロ初安打も記録。その瞬間、まるで祝福するかのように夜空を花火と煙が包み、その映像が全国区の情報番組でも繰り返し放送されるなど “持っている” 一面も見せた。

 そして一日置いて今夜のスタメン抜擢だが、甲子園といえば2014年の夏、初戦の藤代高戦で大会タイ記録となる最大8点差からの逆転劇をやってのけた舞台でもある。少なくとも滝野にとって悪いイメージのある球場ではないはずだ。

 ただ、そうした青春の輝かしい思い出も、今日ですべてがトラウマに塗り替えられてしまったかもしれない。8回裏2死二、三塁。なんてことない飛球だった。特に高く舞い上がったわけでも、スライスして飛んできたわけでもない。これさえ捕れば絶体絶命のピンチを脱し、攻撃に弾みもつく。バッテリーも打球が上がった瞬間、内心ガッツポーズをした事だろう。

 しかし滝野は、追い方からしておかしかった。落下点の予測を見誤ったのか、セカンドが処理すると思ったのか。一瞬の迷いが出足を遅らせた。見るからに慌てながら懸命にダッシュするも、打球はグラブの下をくぐり抜け、誰もいないライト後方へと転々と弾んだ。記録はヒット。マウンドの福敬登は膝に両手をやり、ガックリと俯いたまま動けなくなった。

 自らの二つのエラーで招いたピンチとはいえ、この結末はあまりにも無情だった。その直後の攻撃で、ベンチは滝野に代打を送った。どうせならやり返すチャンスを与えて欲しかったが、これ以上追い詰めないようにというせめてもの気配りにも思えた。9回表2死。致命的なミスを犯した上に最後のバッターになったのでは、たった一度の「初スタメン」があまりにも過酷な思い出になってしまう。

 果たして今夜、滝野は何を思って眠りにつくのだろうか。悔やんでも悔やみきれない、長い長い夜になる事だろう。

 

1999年のあの落球

 色々な条件の違いこそあるが、外野手の思わぬ落球といえば印象深かったのは1999年9月4日、広島市民球場での “レフト福留孝介” の落球サヨナラがまず思い浮かんだ。

 大型ショートとして鳴り物入りで入団し、開幕スタメンの座も射止めた天才・福留だったが、内野守備のあまりの拙さから8月以降レフトでの出場が増加。この日も「7番レフト」でスタメン出場したものの、9回2死一、二塁から痛感の落球でサヨナラ負けを喫した。翌朝の『中スポ』によれば試合後、福留は「チクショー!」と感情を露わにして悔しがったという。

 滝野と福留。あまりにも境遇が違いすぎるので単純に重ね合わせることはできないが、福留ほどの選手でもこんな時代があったのだ。滝野もこれに腐らず、いつか一流の選手になって笑い話にしてもらいたいものだ。

 ちなみに福留のエラーには後日談がある。3,4年前に立浪和義氏がテレビ番組で語っていた話だが、落球の翌朝、さぞかし落ち込んでいるであろう福留を励まそうと食堂で立浪が声をかけに行ったところ、けろっとした顔で「あれ、立浪さん。どうかしたんすか」と言ってのけたのだという。

 このメンタルの強さこそが、その後福留を超一流へと導いた秘訣なのだろう。だから滝野もあまり落ち込まず、「だからどうした」と言って爆睡するような太々しさが必要なのかもしれない。