ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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「大福丸」への橋渡し

○7-0巨人(23回戦)

 「勝利の方程式」というフレーズが初めて登場したのは1993、4年頃のことだと言われている。当時の巨人・長嶋茂雄監督が、橋本清から石毛博史につなぐ必勝リレーをこう称し、一気に広まったとされる。

 必勝リレー自体を発明したのがどこのチームだったのかについては諸説あるが、少なくとも長嶋巨人より前にはその雛形とも言える形が複数の球団で登場していた。だが「勝利の方程式」という言葉を発明したのがミスターの白眉だった。

 物事は言葉が定義されると追随しやすくなるものだ。1990年代の後半にはほとんどの球団が方程式の確立に躍起になった。その中で、中日はかなり成功した部類に入ると思う。1999年に山田久志コーチによって構築された、「落合英二、岩瀬仁紀、宣銅烈」による方程式は、横浜の「五十嵐英樹、佐々木主浩」にも負けず劣らずの威力を発揮し、リーグ優勝の原動力にもなった。

 3人によるリレーというのも目新しかった。ネット上では、まるで阪神の「JFK」がこの形式を確立したかのような物言いにたびたび遭遇するが、3人方程式を最初に確立したのは中日である(異論は認める)。そして2004年頃の「平井正史、岡本真也、岩瀬仁紀」、2010年頃の「高橋聡文、浅尾拓也、岩瀬仁紀」と変遷しながら、黄金期の中日にはいつも方程式があった。

 しかしチームの低迷と共に、10年以上続いた3人方程式の歴史も途絶えてしまった。又吉克樹や福谷浩司、田島慎二あたりがそれっぽい方程式を作りかけても、2年と持たずに瓦解。そもそも肝心のクローザーが定着しないのだから、方程式も作りようがない。そんな状況がもう何年も続いていた。

 ところが今シーズンはライデル・マルティネスの覚醒により状況が一変。祖父江大輔、福敬登と経由するリレーには「大福丸」の愛称が付き、その馴染みやすさも相まってたちまちファンの間で浸透しつつある。

 だが、ちょっと待ってほしい。本当にそれで良いのかと。一人忘れてはいないか? 「大福丸」につなぐ重要な存在のことを。そう、“6回の火消し男” 谷元圭介である。

 

まるで必殺仕事人

 与田監督が勝負に打って出た。6回表、2死一、二塁の場面だ。先発の清水達也はちょうど100球に達したが、打たれたヒットはわずか3本。ただゼラス・ウィーラーには前の打席で、そのうちの1本のツーベースを打たれている。

 点差は1点。清水の経験値よりもチームの勝利を優先し、谷元をマウンドに送り出した。毎度ながらヒット1本も許されない厳しい状況での登板には頭が下がる。抑えれば「大福丸」に直結、ダメなら大勢の観客のため息と共に清水の勝ちも消すことになる。

 他人が出したランナーを背負いながら、その命運を一手に引き受けるのだから堪らない。並の精神力では務まらない役割だ。それでいて抑えて当たり前のポジションゆえ、ヒーローインタビューに呼ばれることも滅多にない。谷元がお立ち台に上ったのは2018年5月4日が最後(ビジターなので厳密にいえばお立ち台ではない)。短時間で最高の仕事をして、人知れず帰っていく。まるで必殺仕事人である。

 さて、その谷元。打ち気にはやるウィーラーに対し、手玉に取るような緩いカーブを投げ込み、あっという間にピンチを脱した。その球数わずか2球。されど、この2球で試合の流れは大きく中日に傾いた。

 試合後の記事で知ったが、谷元はこれがプロ通算150ホールドの節目だったそうだ。あくまで静かに、あくまで淡々と。火消し屋は今日もきちっと「大福」への橋渡しに成功したのだった。