ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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2020年、吉見はまだ元気です

○3-2DeNA(15回戦)

 吉見一起が最後に二桁勝利をあげた2012年とはどんな年だったのか、あらためて振り返ってみる。

 新年早々、オウム真理教の平田信が出頭。これを足がかりに長年逃走していた指名手配犯が次々と逮捕された。大河ドラマは歴史的低視聴率にあえいだ『平清盛』で、AKB48選抜総選挙の1位は大島優子。前田敦子が卒業したのはこの年の8月のこと。政治では12月に自民党が与党に返り咲き、第二次安倍政権が誕生。野球界では村田修一の巨人移籍初年度だったり、中日からブランコ、ソト、ソーサの3外国人が一斉にDeNAへと流出したのもこの年の暮れのことだ。

 うむ、どれもつい最近の事のように思えなくもないが、冷静に考えればずいぶん昔の話ばかりだ。

 何しろ前田あっちゃんは一児の母となり、安倍首相は憲政史上最長の在任期間を経てその役目を終えようとしている。村田はとっくの昔に引退し、独立リーグを経て巨人コーチに就任。ブランコは母国でダイニングバーを経営しているとどこかで見た気がする。近いようで遠い2012年は、もう “ひと昔前” に片足を突っ込んでいるのだ。

 プロ野球の常識もこの8年間で大きく変化を遂げた。大谷翔平のプロ入り前年にあたる2012年はまだ150キロ後半を投げる投手がめずらしく、フライボール革命が日本に根付くのはもう数年先のこと。いわゆる違反球が使用されていた真っ只中ということもあり、「投手はコントロールが重要で、速さは二の次」という考え方が浸透していた。

 その代表格といえる存在こそが中日の絶対的エース・吉見だった。

 

平均140キロのエース

 

 2012年の吉見の平均球速は140キロ。最速147キロを何度か記録したが日常的に出ていたわけではなく、試合によっては142、3キロしか出ないことも多々あった。それでもシーズン13勝、防御率1.75という好成績を残せたのは、誰にも真似できない抜群のコントロールがあったからこそだ。

 この年のオフに『すぽると』で放送された「現役選手100名に聞いた、この選手がすごい!」という企画ではコントロール部門で2年連続トップを獲得。その実力はプロをも唸らせるほど圧倒的だった。球速よりもコントロールで打者をねじ伏せた系譜としては山本昌も有名だが、あちらはサウスポーだ。

 右腕で、誰の目にも分かるような決め球があるわけでもなく、それでいて140キロそこそこしか出ない投手がなぜリーグ最強クラスの座に君臨することができるのか。当時から不思議がられていたのを思い出す。

 ただ、現代に同じような能力の投手が現れたとして、吉見のように活躍できるかは疑問符がつく。160キロに迫るスピードボールが当たり前になり、球種も「スラッター」などバリエーション豊かになった。コントロールと内外の出し入れが生命線だった当時の吉見がどこまで通用するのか。ぜひ見てみたい気持ちと同じくらい、少し怖くもあるのが率直なところだ。

 

意地とプライドの80球

 

 で、今日の先発は  “当時の吉見に似た投手” ではなく、正真正銘の吉見である。脇腹の痛みで登板を回避したヤリエル・ロドリゲスの代役としてマウンドに上がった吉見だが、相手の強力打線をみればどうしたって不安ばかりがつきまとう。正直、140キロ出るかどうかのボールを打ちあぐんでくれるほど生易しい打線ではないからだ。

 その予感は初回、ネフタリ・ソトに浴びた特大のホームランを見て確信に変わった。なんならこの後炎上は避けられそうにないとさえ思ったのだが、吉見は踏ん張った。2回裏は1死一、三塁、4回裏は1点返されてなおも1死一、二塁。致命傷になりそうなところをギリギリで防ぎ切り、かろうじてリードを死守したのである。

 5回裏に1死二塁としたところで又吉克樹にバトンを譲り勝利投手の権利こそ得ることはできなかったが、緊急先発で5回途中2失点なら及第点であろう。しかし中身を見れば6被安打など決してラクな投球ではなかった。むしろいつ決壊してもおかしくないほど危うかった。

 それでも必死に踏ん張る姿は、久々に音楽番組に出演し、めちゃくちゃ苦しそうに当時のヒット曲を原キーで歌うかつてのスター歌手と重なるものがあった。意地とプライドの80球。吉見はみごとに歌いきった。あれから8年経って色んなことが変わったけど、吉見はまだマウンドに立ち続けている。