ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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リナレス来日の衝撃

○5-0DeNA(11回戦)

 少し懐かしい話をしたい。18年前、2002年の6月というと日本中がサッカーW杯日韓大会に沸きに沸いていた時期であり、プロ野球は限りなく影の薄い存在となっていた。

 ニュースのスポーツコーナーも数十分間に渡ってサッカーの話題で盛り上がったあと、ついでのように「最後は日本のプロ野球です(笑)」といった具合に30秒くらいのダイジェストを流してさっさと済ませる始末。長いこと野球を見ているが、あれほど肩身が狭い思いをしたのは後にも先にもあの時だけだ。

 つい去年、ラグビーのフィーバーに搔き消される形で巨人とソフトバンクの日本シリーズが“空気”になっていたが、それでも2002年の不遇に比べれば取るに足らない程度のものだ。

 当然、スポーツ新聞各紙も連日サッカー一色に染まった。試合結果はもちろんのこと、各国スター選手のイケてる髪型や、中津江村とカメルーン代表の親交といったサイドストーリーが脚光を浴び、それらが大々的に報じられる様子はまさしく社会現象と呼ぶにふさわしいものだった。

 そんな中でもひっそりとプロ野球のペナントレースは続いていた。新監督の山田久志率いるドラゴンズは開幕から3カード連続で負け越すなどスタートダッシュに失敗。5月こそ大きく勝ち越して借金を返済したが、6月に入るとまた5割付近をうろうろするパッとしない状況が続いていた。

 なんとか打開の糸口をつかみたいフロントは、怪我の状態が芳しくないレオ・ゴメスに代わる新外国人の獲得に着手。以前から接触していたキューバ政府の了承を取りつけ、なんと母国で“至宝”と称される超大物・オマール・リナレスの獲得に成功したのだ。リナレスといえばバルセロナ、アトランタ五輪で2大会連続の金メダルをキューバにもたらした野球大国が誇る“生ける伝説”だ。

 リナレスの獲得が決まったとなれば、もうサッカーどころではない。中日スポーツはW杯準決勝が始まった6月26日から3日連続でリナレス関連の話題を一面に掲載。日本中で名古屋だけがサッカーそっちのけでリナレスに夢中という異例の報道態勢を敷いたのだ。

 同月30日にブラジルの優勝でW杯の幕が閉じると、リナレス報道はさらに過熱。いよいよ来日した7月14日から4日連続で、一軍デビューを間近に控えた20日からは5日連続で一面を飾り、たちまちリナレスはベッカムやロナウドを凌ぐスーパースターの座に躍り出たのである。

 ところがフィーバーは長続きしなかった。そもそも1年前にキューバ代表を引退するなどかつてほどの力が無くなっていたこと、そして全盛期とは別人のように太ってしまったことで体のキレが衰え、デビューから2週間足らずで二軍落ちの憂き目を見たのだった。翌年以降もそれといった成績は残せず、2004年限りでプレーヤーを引退。超が付くほどの鳴り物入りで来日したものの、助っ人としては完全に期待外れに終わったのである。

 

リナレスを通じて培った信頼関係

 

 しかし2016年に巡回打撃コーチ兼球団通訳として12年ぶりにドラゴンズ復帰。スタッフ扱いでチームに帯同し、母国の後輩にあたるビシエドや阿部寿樹に打撃指南を与えている様子が断片的に報じられている。

 そのビシエドが「私のアイドル」と語るなど、母国では今なお憧れの対象であり続けるリナレスの存在は、球団がキューバとの交渉をおこなう際にもパイプ役として大いに役立っているようだ。昨年の冬、与田監督が自ら渡航してキューバ政府と折衝。ライデル・マルティネスの残留ならびに2年契約の締結、そして今日先発のヤリエル・ロドリゲスとの新規契約を決めたわけだが、これも長年リナレスを通じて培った信頼関係が根本にあることは間違いないだろう。

 ここまで3試合、想像を遥かに上回る活躍で救世主的な存在となっているヤリエル。その裏には、18年間にも及ぶ球団とキューバ政府との厚情があった。他の球団には容易くマネできないプライスレスな関係性。あのとき「全然打てんやないか! キューバの国家的詐欺や!」とか言って高校の教室で喚いていた私(16歳)の無能っぷりが恥ずかしいばかりだ。