ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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あの夏のつづき

○8-3ヤクルト(10回戦)

 今から5年前のちょうどこの時期、甲子園球場では壮絶な熱戦が繰り広げられていた。第97回全国高校野球選手権大会決勝、東海大相模対仙台育英である。

 清宮幸太郎、オコエ瑠偉といったスター揃いの今大会は近年まれに見るほどの注目を集め、そのクライマックスにあたる決勝戦は平日真昼間の試合にもかかわらず視聴率20.2%を記録。うだるような暑さの中で行われたこの試合は4万3千人の大観衆を集めた。

 東海大相模が点を取れば、負けじと仙台育英が取り返すシーソーゲームは6対6のまま9回に突入。しかし、いつ終わるとも知れない名門同士の意地と意地のぶつかり合いは、たった1球で大きく動くことになる。

 9回表、ここまで一人で投げ抜いてきた佐藤世那の投じた初球、真ん中に浮いたフォークボールを振り抜いた小笠原慎之介の打球は、高々と舞い上がってライトスタンドへと吸い込まれた。ここで出た、自身今大会1号ホームラン。しばし驚いたような表情を浮かべたあと、笑顔でダイヤモンドを一周した小笠原。門馬敬治監督が抱擁で出迎えるなど、東海大相模のベンチは優勝したかのようなお祭り騒ぎに沸いていた。

 それとは対照的に、呆然と立ち尽くすしかなかったのが打たれた佐藤、そして4番でキャッチャーを務める郡司裕也だった。東北人の悲願である“白河の関”超えは、またしても夢と散った。後に郡司はこの場面を「たった1球で試合が決まってしまい、野球の難しさ、怖さを大舞台で痛感した」(慶應塾生新聞『甲子園という魔物』)と振り返っている。

 打った小笠原はその2ヶ月後のドラフト会議で1位指名を受けてドラゴンズに入団。打たれた郡司は慶應大へ進学し、やはり4番でキャッチャー、さらに主将の重責を担いながら六大学三冠王に輝く活躍をみせ、チームを大学日本一へと導いた。

 それぞれ違った道を辿りながら、今度はチームメイトとして再会した。横のつながりが強い球界ではさほど珍しいことでもないが、一軍の舞台でバッテリーを組むとなるとなかなか運命的な話になってくる。しかもちょうど同じタイミングで一軍に昇格した小笠原と郡司。あの夏、対照的な景色を見た二人が、今度は同じ目標に向かって走りだした。

 

小笠原を生き返らせた、ベンチの判断と郡司のリード

 

 とは言うものの、実は小笠原と郡司が一軍でバッテリーを組むのはこれが初めてではない。3月6日、15日のオープン戦で実現し、このときは2試合とも小笠原は今ひとつの内容に終わっている。

 大学で進化を遂げた郡司に対し、鳴り物入りでプロの門を叩いた小笠原は相次ぐ怪我の影響もあって期待どおりの成長曲線を描けずにいる。あの夏の主役は間違いなく小笠原だったが、今やその注目度は逆転したと言っても過言ではない。

 今日も小笠原は散々だった。初回こそ難なく凌いだものの、4点の援護をもらって迎えた2回裏に連打を浴びて3失点。なんとかリードは吐き出さずに踏ん張ったとはいえ、楽勝ムードが一転して暗雲たちこめる展開となったのはひとえに小笠原の不甲斐なさのせいだ。この時点では早いイニングでの降板を私を含めて誰もが覚悟したと思う。

 ところが3回表の攻撃。2死一、三塁で小笠原にも打席が回ってきたにもかかわらず、ベンチが下した判断は「続投」だった。喉から手が出るほど欲しい追加点をみすみす逃してまで、小笠原にこの試合を預けたのだ。

 おそらくここで交代なら、小笠原はそのまま二軍行きの切符を渡されていたことだろう。だが小笠原は、ここからチームが巻き返すには絶対に必要な戦力だ。目先の欲を捨ててまで、小笠原の復調を優先した判断は間違っていなかった。3回以降は本来の力を発揮し、テンポよく凡打を築いていく。

 郡司のリードもストレート中心だった最初の2イニングとは異なり、3回からはツーシームとチェンジアップ主体の配球にシフト。最速146キロとスピードが出なかった今日の小笠原には、このスタイルが合っていたようだ。

 郡司のナイスリードに導かれ、今季初勝利をあげた小笠原。世代最強エースだった小笠原は技巧派へのモデルチェンジを模索中で、4番キャッチャーだった郡司は一軍生き残りをかけて日々必死にしがみついている。

 甲子園から5年の歳月が経ち、決して順風満帆ではないかもしれないが、今度は二人で勝利を味わうことができた。しかしまだまだ、この同級生バッテリーの戦いは始まったばかり。いつかあの夏を超えるような、もっと大きな舞台へ連れて行ってくれるまで。物語はつづいて行く。