ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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もがき、工夫し、成長する

○8-0DeNA(6回戦)

 「一番印象的だったのは、ペナントレースが始まったばかりの頃に『おまえは絶対に代えないからな』と言われたこと。驚きましたよ」

 今から16年前の2004年、荒木雅博はチームを就任初年度にして優勝に導いた落合博満監督の印象を問われ、こう答えている。

 この年のシーズンを迎えた時点で荒木は既にレギュラーの座をつかんでいたが、前年は打率.237に終わるなど打撃面での物足りなさから「不動のレギュラー」とは言い難い立ち位置にいた。現にこのシーズンも序盤は2割台前半をうろつく不振にあえぎ、5月11日には打順を8番にまで落としている。

 年齢もやや遅咲きのため27歳。チャンスでことごとく凡退する姿に業を煮やしたファンからは、入団2年目で同じ内野手の森岡良介に代えるべきだという意見がかなりの勢いで寄せられていた(いつだってファンは若手にロマンを感じたいのだ)。

 それでも落合が荒木の名をオーダー表から外すことはなかった。周りから何を言われようと、たとえ8番であろうと、頑なにスタメンで使い続けたのだ。6月頃からようやく波に乗った荒木は結局、全試合に出場して打率.292を記録。あのイチローを超える年間9度の4安打以上をマークし、日本新記録を樹立するなどリードオフマンとしてチームを牽引した。井端弘和との息の合ったプレーが「アライバ」と称されるようになったのもこの頃からだ。

 今となっては序盤の不振を覚えている人など、ほとんどいないだろう。大抵の資料にも2004年は荒木が大ブレイクした年とだけ記されている。だがもし、あの段階で我慢できずに荒木を外していたらーー。荒木自身はもちろんのこと、ドラゴンズのその後の運命も大きく変わっていたに違いない。

 

5番阿部ーーメッセージが込められた起用

 

 調子の悪い選手を外すのは簡単だ。しかし外された選手はますます自信をなくし、そのまま戻ってこられないほどのドツボにはまりかねない。

 阿部寿樹はここ2週間ほど、まさに不振のドン底にいた。開幕当初は快音を響かせていたバットも最近は鈍い内野ゴロを打つための道具と化した。打てない、とにかく打てない。そして不振も極まったのが昨夜の試合。1死一、二塁のチャンスで石川昂弥の代打として登場した阿部は、例によってボテボテのサードゴロを転がし、注文どおりの併殺に倒れた。

 うつむきながらベンチに帰る阿部の表情は暗く、憔悴しきっていた。いやが上にも“2年目のジンクス”という言葉が頭をよぎる。だからこそ、今日のスタメン5番出場には度肝を抜かれた。

 しかし誰よりも驚いたのは阿部本人だったに違いない。ある意味では博打のような起用であるが、首脳陣の心意気は痛いほど伝わってくる。「おまえが復調しなくちゃこのチームはダメなんだ」。そんなメッセージが込められた大胆な起用に、阿部は初回から応えてみせた。

 中川虎大のナックルカーブをうまく流した打球は一、二塁間を抜ける先制タイムリーに。これだけでも十分な活躍だが、さらに4回、7回と3本のタイムリーで計4打点をあげ、完全復調をアピールした。

 いつでも簡単にヒットが打てればいいのだが、プロの世界はそう甘くはない。昨季、いきなりブレイクした阿部にとっては初めてともいえる大スランプ。ここでスタメンをあきらめたり、二軍に落としてしまえば昨シーズンの経験は何だったのか? ということになる。

 だがスランプだろうと打席に立たねばならない状況に追い込むことで、選手はもがき、工夫し、成長するのだと思う。逃げ場を失ったときほど、人は潜在的な力を発揮できるものだ。

 かつての荒木がそうであったように、同じセカンドを守る阿部もこのスランプを経て一段とたくましくなるはずだ。本気で悩んだ分だけリターンもデカい。きっと阿部にとって必要なスランプだったのだ。

 

【参考資料】

横尾弘一(2004)『落合戦記 日本一タフで優しい指揮官の独創的「采配&人身掌握術」』ダイヤモンド社