ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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ある日のドラゴンズ⑬誤算! 孝政、小松で痛恨の黒星

 日常から野球が消えて早数ヶ月。本来なら一喜一憂に身悶えつつも幸せな日々を過ごしているはずだったのに、社会はすっかり非日常に支配されてしまった。いつ終わるとも知れない未知なる敵との戦いにいい加減うんざりしている方も少なくないだろう。

 というわけで当ブログでは、少しでも読者の皆様に“日常”を感じて頂きたく、過去の中日ドラゴンズの試合の中からランダムにピックアップした1試合に焦点を当てて振り返ってみたいと思う。

 題して「ある日のドラゴンズ」。誰も憶えていない、なんなら選手本人も憶えていないような、メモリアルでもなんでもない「ある日」の試合を通して、日常の尊さを噛みしめようではないか。

 

1981年5月9日vs広島7回戦

 

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▲中日スポーツ(1981年5月10日付1面)

 

 打った瞬間、ナゴヤ球場に悲鳴がこだました。9回1死二、三塁。打席にはライトル。小松辰雄が投じた8球目、外角への渾身の1球を振り抜いた打球は、左翼スタンド目がけて一直線に伸びていった。空を仰ぐレフトのコージ。グラブをはめた左手を腰に当て、呆然とする小松。単なる3ランならいざ知らず、この一打はファン、そして選手たちの心を砕くにはあまりにも強烈すぎた。

 というのも、当時のプロ野球は試合開始から3時間を超えた時点で次の延長イニングに入らない「時間制限」が設けられており、この日も既に9回表が始まった時点で規定の3時間が間近に迫っていた。つまりこの回の広島の攻撃さえ凌げば中日の負けは無くなり、サヨナラ勝利を期して裏の攻撃に臨む腹づもりだったのだ。

 9回のマウンドには8回に引き続き鈴木孝政が上がった。中日が誇るダブルストッパーの一人。しかしその鈴木が、先頭の寺田吉孝にヒットを許した。「ああいう(無名の)バッターに打たれるようじゃ高橋慶彦以下の勝負は危ないと感じた」と近藤監督。先頭に返り、強打者が居並ぶ赤ヘル打線に対して、代走の木下富雄が二盗を決めたところで近藤監督は“切り札”を投入した。「ピッチャー小松!」。

 ブルペンで投球練習を始めたのも束の間、「正味5球」で肩を慣らしての緊急登板。それでいて絶体絶命のピンチなのだからたまらない。まず高橋慶が犠打を決め、続く衣笠祥雄を歩かせて1死一、三塁。送球ミスが許されない場面で衣笠の二盗を見過ごすと、悲劇のシチュエーションができあがってしまった。

 打率3割8分を超える強打者ライトルに対し、小松は自慢の豪速球をこれでもかと投げ込む。この日の最速は150キロ。いわゆる終速で計測していた時代でこれだから、現在の計測法なら155キロは出ていたのではないか。「スピードガンの申し子」の肩書きに偽りなし。

 だが、小松の気迫は木っ端微塵に打ち砕かれた。カウント2-2からの8球め、三振を狙って投じた外角へのストレートだった。試合後、バッテリーを組んだ木俣達彦は少し後悔していた。「タツオが三振を取る球はストレートしかないと思った。カウント2-3なら、カーブで意表を突く手もあったが……」。

 1-2からカーブでストライク。そこから3球連続でストレートをファウルにされ、4球めに木俣が要求したのもやはりストレートだった。それだけ自信があったのだろうが、さすがに無用心すぎた。一方のライトルは、逆らわずに左翼方向へ流し打ち。“力”の勝負にこだわったバッテリーが、巧打者の“技”に屈した格好だ。

 

近藤監督初年度

 

 そもそもの誤算は先発の藤沢公也にあった。1年目に13勝をあげて新人賞を獲得した右腕も、前年は1勝15敗という無惨な成績に終わり、この年は真価が問われるシーズン。最初の先発登板で完投勝利を飾るなどここまで早くも3勝と順調にきていたが、この日はまるでダメだった。2回に4安打を集められ4失点すると、近藤監督はたまらず交代を決断した。先発投手が1.1回KOでは試合も荒れるはずだ。

 ダブルストッパーで落とした痛恨の黒星とはいえ、まだ貯金9。近藤監督初年度のこのシーズン、中日は4月を15勝4敗とロケットスタートに成功していた。谷沢健一、大島康徳、木俣、星野仙一といった1974年の優勝を知るベテランと、田尾安志、宇野勝、牛島、小松といった若手の力が噛み合った新生ドラゴンズは、前年3割台の勝率で最下位に沈んだのがウソのように、開幕から活気付いた。

 しかし、それも長くは続かなかった。江川卓、西本聖の2本柱の活躍で貯金をどんどん増やす藤田巨人に対し、中日は5月、6月を共にマイナス8と低迷し、気付けば首位から10ゲーム以上離されて下位に沈んでしまった。

 結局、浮上の手がかりさえ掴めぬまま5位でフィニッシュした近藤中日だったが、このとき悔しい思いをした“野武士”たちが翌年、歓喜のドラマを演出することになろうとは--。

 それではまた、ある日どこかで。

 

1981.5.9●中日4-7広島