ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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中日ファンのための読書感想文④「悔いは、あります」

 「本、読んでますか?」

 若者の活字離れが叫ばれて早幾年。町からは書店が消え、電子書籍も今ひとつ定着しているようには思えない。今や一部好事家の嗜みに成り下がった読書だが、かつては映画と並ぶ最高のエンターテイメントだったのだ。楽しいだけでなく、文化的な香りも漂う知的な娯楽。未曾有の事態に見舞われた今だからこそ、持て余した時間を使って良質な本を読もうではないか。 

4冊め「悔いは、あります」

 

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 数えきれないほどのプロ野球選手の自伝を読んできたが、共通するのは果てなき向上心と、ほとばしるパッションに満ちていることだ。だからこそ自伝を出版できるような一握りの成功者になれたのだろうし、ときには活字にみなぎる“自信”に嫉妬を覚えることさえある。

 その点において、今中慎二の自伝「悔いは、あります」は変わり種といえるかもしれない。1989年ドラフト1位で中日に入団。2年目にはやくも二桁勝利をマークすると、93年には最多勝、最多奪三振、そして沢村賞を受賞。瞬く間に球界を代表するエースに駆け上がった天才エースの投球は、あの長嶋茂雄をして「芸術的なピッチング」と言わしめるほどの輝きを放った。

 97年以降はサウスポーにとって生命線である左肩を痛めて苦しみ続けたが、全盛時の圧倒的な投球はファンの目に焼き付いて離れず、球団史に残るレジェンドの一人として今なお語り継がれている。

 引退を表明した直後の2002年に発刊された本書のタイトルは、まだ現役に未練を残す今中の心情を表している。そうは言っても、故障するまでの8年間で二桁勝利を挙げたのは実に6度、あの「10.8」でも先発を託されるなど、そのキャリアは充分すぎるほどの眩さに満ちている。なにしろ90年代を代表するエースの自伝なのだ。さぞかし誇らしげにキャリアを振り返っても良さそうなものだが、元来クールな今中は唯一の自伝でもそのキャラクターを崩さない。

 たとえば「10.8」当日の描写は、こうだ。

 

 僕はもしかすると事の重大さを理解していなかったのかもしれない。前夜は普段通りに寝つけたし、正体不明の電話が鳴るまではぐっすりと眠っていた。ワイドショーを観ていても緊張するようなことはなかった。眠い目をこすりながら、テレビの前で「凄いことになってるなぁ」と思ったことは覚えている。それでも、あと数時間後にマウンドに立って自分が投げることに関しては、緊張もプレッシャーも、ぜんぜん感じてはいなかった。

p130

 

 どこか物憂げで、気だるい文体は「風の歌を聴け」や「1973年のピンボール」の頃の初期村上春樹を彷彿とさせる。少なくとも本書からは果てなき向上心やほとばしるパッションは一切感じられず、その淡々とした語り口には一種の冷たさすら覚えるほどだ。一体なぜなのか。今中自身の性格によるものもあるのだろうが、そもそも今中が“野球を好きでやっていたわけではない”というのが決定的な要因だと思う。

 中学時代に大した実績を残したわけでもない今中は、当初は「もう野球なんかどうだっていい」(p28)と思っており、高校では中学時代の仲間と遊んで過ごすつもりでいた。ところが父親が本人に黙って、大産大付属高校野球部(3年生時に大阪桐蔭高へと独立)のセレクションに申し込んでいた。仕方なく会場へ行った今中は、合格したくないので遠投のテストでステップなしで投げるなど「バレないように手を抜いた」(p231)という。

 それでもなぜか合格し、名将・鶴岡一人の実息子である山本泰監督の下で散々しごかれることになる。当時の大阪には全盛期のPL高校が君臨していたこともあり甲子園には一度も出場できなかったが、3年生の頃には今中は県内では知らぬ者がいない好投手に成長していた。ドラフト前にはプロ球団のスカウトが毎日のように自宅を訪ね、とにかく「すばらしい」と褒めちぎるのだという。

 普通の高校生なら舞い上がりそうなものだが、ここでも今中は白けていた。「こうして毎日『来て欲しい、来て欲しい』を連呼されると、さすがにうんざりしてくる。というよりも、いいことばかり聞かされて、悪いことはなにも言わないのだから、言葉の重みがなくなってくる」(p62)と至って冷静に大人達を観察していた。

 中日から1位指名を受け、迎えた新年。新人選手は1月5日に入寮することが決まっていたが、今中はそれを拒否した。「正月明けすぐに寮生活を始めるのは、どうしても嫌だった」(p69)そうだ。球団には学校の試験があるからと嘘をつき、実際は友達と毎日遊んで暮らしたという。高いプロ意識が備わっている石川昂弥や根尾昂といった近年のルーキーは言うに及ばず、長い球団史を紐解いても、こんなにやる気がないドラ1ルーキーは今中だけだろう。

 キャリアを重ねても寝坊、遅刻の常習犯。そういえば昔、「サンドラ」の寝起きドッキリのような企画で、死ぬほど眠たそうな今中を見た記憶がある。というか、むしろシャキッとした今中なんか見たことがない。マウンド上でもポーカーフェイスを崩さなかった。打たれても抑えても仏頂面。それでいて誰よりも凄い成績を残す。そんな今中の姿は、当時少年だった私に“孤高”の美学を教えてくれた。

 97年のエピソードも今中らしくていい。故障の影響でファームが主戦場となっていた当時、正岡真二二軍監督の方針でストッキングを膝下まで伸ばして履く、いわゆる“オールドスタイル”が全選手に強制されていたそうだ。実績があるとはいえ、今中も一選手である以上は逆らえない。納得できなかったは今中は、一軍に呼ばれたときのある試合で、敢えてオールドスタイルでマウンドに上がった。翌朝の新聞には「今中の心機一転の表れ」と書いてあったそうだが、実際には「気迫の表れでもなんでもない。ドラゴンズの二軍はこんな格好悪いことを選手に強制してますよ、と皆に知らしめたかっただけだ」(p190)という。

 ともすると反発を買いかねないこのクールさこそが、今中の魅力だ。こうした性格の一端は、今でも「大阪桐蔭にはまったく寄付をしてない」といったトークイベントでの発言などからもうかがうことができる。これが許されるのが今中という男なのだ。

 01年の秋。遂に故障から復活できなかった今中は、ユニフォームを脱ぐ決意をした。もともと好きじゃない野球をようやく辞められるのだ。さぞかし晴れやかな気分なのかと思いきや、意外にもその心には「悔い」が広がっていた。投げられて当たり前、抑えて当たり前だった頃には感じることのなかった、野球ができることの喜び。数年に及ぶ故障との苦闘のなかで、今中はそれを痛感するようになっていた。

 「96年までの8年間、ひたすら投げ続けたことは、これっぽっちも後悔していない。(中略)だが、97、98年、どうして僕は焦ってしまったのだろう。なぜ休む勇気を持たずに投げ続けてしまったのだろう……。失敗だったと悔やんでいる」(p219)。

 マウンド上では泣いたことなんかない今中だが、引退表明後にスタジオ生出演した「サンドラ」では感極まって涙を流す場面があった。共に戦ってきた仲間達による今中への惜別VTRが流れたときである。ずっとバッテリーを組んできた中村武志のメッセージに、今中は込み上げるものを抑えきれなかった。孤高のエースが見せた意外な一面に、司会者やアシスタントが感嘆の声をあげ、テレビの前の私も20年近く経っても忘れないほどの衝撃をうけた。

 辞めたくて仕方がない。遊びたくて仕方がない。プロになるのだって嫌だったはずなのに、「いつしか僕は、野球を愛するようになっていた」(p232)。短くも太い野球半生を綴った天才サウスポー唯一の自伝。アスリート本にありがちな熱苦しさが苦手な方にも薦められる、クールな一冊である。

 

「悔いは、あります」(今中慎二/ザ・マサダ)