ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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ある日のドラゴンズ⑫水原の執念!連投渋谷の零封劇

 日常から野球が消えて早数ヶ月。本来なら一喜一憂に身悶えつつも幸せな日々を過ごしているはずだったのに、社会はすっかり非日常に支配されてしまった。いつ終わるとも知れない未知なる敵との戦いにいい加減うんざりしている方も少なくないだろう。

 というわけで当ブログでは、少しでも読者の皆様に“日常”を感じて頂きたく、過去の中日ドラゴンズの試合の中からランダムにピックアップした1試合に焦点を当てて振り返ってみたいと思う

 題して「ある日のドラゴンズ」。誰も憶えていない、なんなら選手本人も憶えていないような、メモリアルでもなんでもない「ある日」の試合を通して、日常の尊さを噛みしめようではないか。

 

1971年4月24日vsヤクルト2回戦

 

 開幕延期で空いた時間の退屈しのぎになればと始めた「ある日のドラゴンズ」も12回目。できるだけ年代に偏りが生じないよう満遍なく取り上げるつもりでいたが、私も俗人である。2000年代や1990年代のエピソードに多くの反響を頂けるのが嬉しくて、どうしても1970年代以前の話題は避けがちになってしまっていた。

 しかし、それでは「中日ドラゴンズ歴史研究家」の名が廃るというもの。アクセス数や「いいね」の数といった俗物には目もくれず、幅広く歴史を掘り起こすという歴史家の使命に立ち返り、今日は関心を持っている人が少なそうな1971年の「ある日」に焦点を当ててみることにした。

 コアな中日ファンか、あるいは当ブログの熱心な読者であれば、1971年と聞いただけで「水原監督の最終シーズン」であるとピンと来るのだろうが、そうでない方にはいまいち時代の感覚がつかみづらいと思う。それくらい大昔なのだから仕方あるまい。

 1971年春。プロ野球の開幕よりひと足早く、ある国民的番組が産声をあげた。4月3日、NETテレビ系列(現在のテレビ朝日)で土曜日の19時30分にスタートした番組こそが「仮面ライダー」だった。「V3」や「ゼロワン」といった呼称はない。藤岡弘扮する本郷猛が仮面ライダーに変身して悪の秘密結社ショッカーと戦う、無印の初代ライダーである。

 その第4話「人喰いサラセニアン」が放送された4月24日、ドラゴンズは1-0の零封という痺れる勝利を飾った。その一部始終をご紹介しよう。

 

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▲中日スポーツ(1971年4月25日付1面)

 

 県営富山球場でおこなわれたデイゲーム。その先発マウンドに上がったのは、休養十分の星野仙一でも伊藤久敏でもなく、背番号17、渋谷幸春だった。21日の巨人戦に先発し、1回4失点で無念のKOを喫したばかりの渋谷。まさかの連投(22、23日は試合なし)となったこの日の登板には、水原監督の勝利への執念がのぞいた。

 ヤクルト監督・三原脩と11年ぶりに相見(あいまみ)えた18日の初対決は延長11回の末に惜敗。水原にとって雪辱の一戦となるこの試合、多少の無理は承知のうえで、このシーズンの投手陣の「柱」と期待する渋谷を送り込んだのだ。

 しかしその渋谷がどうにもピリッとしない。ヤクルトの拙攻に助けられながらも、毎回のようにランナーを出す苦しい投球。6回には2死満塁のピンチを背負ったが、ここも大矢明彦の打ち損ないでなんとか切り抜けた。結果だけみれば7回無失点で十分好投に思える。だが先発完投が当たり前の時代に、無失点ながら水原は8回から川内八洲男に継投した。それほどこの日の渋谷は不安定だったのだ。

 「3点あればもっと楽に投げられたのですがね」。降板後に渋谷が皮肉ったとおり、相手も相手なら中日打線の湿り気だって負けてはいなかった。ヤクルト先発・石岡康三のカーブとシュートを織り交ぜた変化球ピッチングに翻弄され散発4安打。そのうち1安打が2回に飛び出した木俣達彦の左翼席へのソロ弾で、これがそのまま決勝点になった。

 この日は終始、ヤクルトの拙攻に助けられた。9回には無死1、3塁の絶体絶命のピンチを迎えたが、強攻策が裏目に出て大矢が遊ゴロ併殺打。続く溜池敏隆が中飛に倒れ、中日が超僅差の試合を制した。

 「いやいや、相手の球が遅すぎたんや。あまりに遅くてタイミングが狂うてしもうたんや」とは、ヤケクソ気味の中西太コーチ談。宿命の対決に敗れた三原監督は「チャンスに悪い面ばかり出ました」とだけ言い残し、そそくさと帰りのバスに乗り込んだ。

 

3年契約の3年目

 

 一方、水原監督はベンチ裏から帰りのバスまでの長い通路を、スタンドから降りてきたちびっ子ファンに囲まれ、もみくちゃになりながらバスに押し流されていった。だが砂ぼこり舞う中でも、表情には笑みを浮かべ「ラッキー、ラッキー。しんどいゲームだった」と2時間24分の試合を総括した。

 文章としては「年に一度の地方シリーズ。中日の勝利にはしゃぎ、水原を囲んだ子供たちも、家に帰って夕飯を食べ、興奮そのままに夜は『仮面ライダー』を満喫したに違いない」とシメたいところだが、当時の放送時刻を確認すると北陸圏は時差で別の曜日に放送していたようだ。実に惜しい。

 話が横道に逸れた。水原は中日就任3年目。過去2年間は、優勝請負人と期待されながらも4位、5位と不甲斐ないシーズンが続いた。特に長年4番として活躍した江藤慎一を放出してまでチームを一新して迎えた昨季は、開幕早々にエースの小川健太郎を失うハプニングにも見舞われた。正直いえばモチベーションを保てという方が難しいほどの困難な状況だったことだろう。

 このまま終われば名将水原の名が廃る。そんな危機感が少なからずあったからこそ、シーズンの序盤にエースを連投させるような無茶な采配を振るったのかもしれない。いずれにせよ、水原の今季に懸ける想いは並々ならぬものがあった。終生のライバル・三原が同じセ球団のユニフォームに袖を通したことも、再び心に炎を灯すには良いきっかけになったようだ。

 3年契約の3年目。渋谷、星野仙といった愛弟子を従え、水原は長い長い野球人生の総決算ともいえるシーズンを戦った。水原政権の3年間については、当ブログの特集に詳しい。それではまた、ある日どこかで。

1971.4.24○中日1-0ヤクルト

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