ちうにちを考える

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我慢を乗り越えた小島弘務の至言

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 8日付の中日スポーツに懐かしい名前をみつけた。小島弘務。1991年にドラフト1位で入団し、1年目から先発、リリーフとして24試合に登板、6勝を挙げた。将来のエース候補と目されたが2年目以降は伸び悩み、97年オフにトレードでロッテに移籍した。

 残念ながらプロでは目立った成績を残せなかった小島だが、その入団経緯は未だに球史アラカルト等の企画で頻繁に話題にのぼる。中スポの記事でも大筋には触れているが、もう少し詳しく当時の状況を振り返ってみたい。

 

1990年ドラフト、キーワードは“浪人”

 

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▲中日スポーツ(1990年11月25日付1面)

 

 1990年11月24日。新高輪プリンスホテルで開かれたドラフト会議のキーワードは“浪人”だった。

 この年最大の目玉は亜大の左腕・小池秀郎。小池はかねてから西武、ヤクルト、巨人を“逆指名”してきたが、前年の野茂英雄と並ぶ史上最多の8球団競合の末、引き当てたのは「まったく行く気のない」ロッテだった。歓喜の舞台となるはずだった大学構内の会見場で大粒の涙を流しながら「あれだけ断ったのにどうして指名したのか」と怒りをあらわにした小池は、その後下宿先にも戻らずに雲隠れ。

 またドラフト前に「ロッテは最も入れたくない球団」と公言して憚らなかった亜大・矢野総監督は、ロッテ・醍醐スカウト部長の電話に「今後も会うつもりはない」と言い放ち、“浪人”を示唆した。

 一方、前年のドラフトでダイエーの入団を拒否し、ハワイで浪人生活を過ごしていた元木大介は念願かなって巨人が指名。今やセ・リーグと比べてもまったく引けを取らないほどの人気を誇るパ・リーグだが、平成も初期の頃は人気者たちにとって1年を棒に振ってでも行きたくない場所だったのだ。

 だがそのなかでも、西武だけは別格だった。時はバブル全盛期。清原和博、工藤公康、秋山幸二といったスターを擁し、黄金期を謳歌していた西武は巨人に次ぐ人気球団の地位を確立。ちょうどこのドラフトの直前までおこなわれていた日本シリーズではその巨人相手に4戦スイープを食らわせ、“新・球界の盟主”の名を欲しいままにしていた。

 本来ならその輪の中にいるはずが、協約違反によって浪人生活を余儀なくされていたのが小島弘務である。概要は検索すれば簡単に知ることができるので省略する。

 協約違反の発端となったのが駒大の中退。ほとんどの本やウェブサイトには「中退」とだけしか書かれていないため、何かトラブルがあったかのように取り違えるが、まったくそんなことはない。駒大に入学した年に母親が胆石を患い入院。学費、生活費を使うことに気が引けた小島は自主的に退学し、1年の浪人を経てノンプロの住友金属に入団したというのが真相である。

 違反の発覚後、得意の“寝業”が仇になった西武・根本陸夫管理部長が「西武が預かるのではない。オレが預かるのだ」と身銭を切って浪人生活を保証した。それどころか自宅に住まわせ、人生勉強を含めて指導の一切を引き受けた。夏場には実家のある京都に戻り、捕手出身の西武・浦田スカウトを相手として本格的なピッチング練習を開始。1年間のブランクもしっかり鍛錬を積み、運命の日を迎えた。

 

星野好みのタフな選手

 

 中日の補強ポイントは前年に続いて先発投手。この年山本昌、今中慎二の若き左腕コンビが初の二桁勝利を挙げたが、ローテを担う西本聖、小松辰雄の両ベテランは揃って30代。前年ドラ1の与田剛はリリーフで適性を発揮したこともあり、将来を考えるともう一枚、即戦力の先発を獲っておきたかった。

 中日はまず他球団と足並みを揃えて小池に特攻。8分の1のくじ引きを外すと、迷わず小島を指名した。元から中日スカウト陣は「小島の方が小池より上」と評価しており、エンターテイナーの星野監督らしく人気ナンバーワンの抽選に“記念参加”したうえでの本命の指名となった。

 「ああいうことで1年間、我慢してきた。その間に精神力も磨かれただろうし、あとは実戦経験を積めば、本当に楽しみな逸材」とは指名後の星野談話。母親のために大学を中退したエピソードといい、星野好みの選手であったことは間違いない。

 

我慢を乗り越えた小島の至言

 

 まさかの契約取り消しから9か月。2度目の指名で今度こそ念願のプロ入りを果たした小島は「来い、と言われれば明日にでも名古屋に行きます」「来年のことを考えて、上(1軍)で投げられるように練習してきました」と即戦力らしく自信にあふれていた。それもそのはず、背番号14を付けた西武では春季キャンプをほぼ完走し、対外試合でも好投した矢先のトラブル発覚だったのだ。右も左も分からないままプロの世界に飛び込む新人とはわけが違う。

 こうして1年間の浪人を経て中日に入団した小島だったが、94年に右肩を故障した影響もあり、プロ通算19勝どまりとドラ1の期待には応えられなかった。しかしこのたび、追手門学院大の監督として久々に中スポに登場。コロナ禍で野球部は活動休止中だが、選手には電話で「我慢するのもまた勉強だよ」と伝えているという。幾度の我慢を乗り越えた小島だからこそ重みを感じさせる至言である。

 

【参考文献・資料】

小池秀郎、ロッテ指名に怒りと涙/ドラフト回顧録4(日刊スポーツ)

・「根本陸夫伝: プロ野球のすべてを知っていた男」(高橋安幸/集英社文庫)