ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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ある日のドラゴンズ⑨与那嶺監督、非情采配でV2へ加速

 日常から野球が消えて早数週間。本来なら一喜一憂に身悶えつつも幸せな日々を過ごしているはずの春なのに、社会は“緊急事態宣言”だの“首都封鎖”だの物騒な言葉で埋め尽くされてしまった。いつ終わるとも知れない未知なる敵との戦いにいい加減うんざりしている方も少なくないだろう。

 というわけで当ブログでは、少しでも読者の皆様に“日常”を感じて頂きたく、過去の中日ドラゴンズの試合の中からランダムにピックアップした1試合に焦点を当てて振り返ってみたいと思う。

 題して「ある日のドラゴンズ」。誰も憶えていない、なんなら選手本人も憶えていないような、メモリアルでもなんでもない「ある日」の試合を通して、平和の尊さを噛みしめようではないか。

 

 

1975年7月11日vsヤクルト13回戦

 

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▲中日スポーツ1975年7月12日付1面

 

 「ピッチャー竹田」--神宮の杜に響いた非情のアナウンス。5回2死一、二塁、与那嶺監督は勝負手に打って出た。マウンド上の松本幸行からすればむかっ腹も立つだろう。あと1アウトで勝利投手の権利を得られる場面。それも節目の10勝めを目前にしてのまさかの降板だった。

 「代えられると思ったよ。あと一人? うん、しょうがないな。汗をかいただけだ。腹立つ」

 だが、イニングを追うごとに松本の球速が落ちていたのをベンチは見逃さなかった。まだスピードガンの無い時代、投手の変調は目測でしか判断できない。だからこそ情に流されてもおかしくないが、投手の松岡弘、山下慶徳にも打たれたところで近藤貞雄コーチをマウンドに向かわせた。

 「球が走っていないと若松(勉)は怖い。なんとか投げさせてやりたかったけど、勝たなきゃどうにもならない」。

 救援に駆けつけたのは、最近調子のいい竹田和史。カウント1-2からの4球目で若松を一邪飛に抑えて難局を凌ぐと、竹田はそのまま8回まで続投してわずか1安打無失点の好投でベンチの期待に応えた。このまま最後まで行くかと思われたが、そこは慎重家の与那嶺。9回はイキのいい鈴木孝政を送り込み、見事に3者連続三振で勝利をモノにした。

 “個人よりチーム”。そんな与那嶺の執念が垣間見えた試合。ネット裏の杉下茂氏も、翌朝の中日スポーツ紙面で松本降板について「勇気ですね。左打者を迎えて、松本と同じ左の竹田にスイッチ。監督としての勝負ですね」とその決断を称えた。

 

非情采配で混セ参戦

 

 与那嶺が情を捨ててまで勝利を取りに行ったのには理由があった。1975年といえば広島カープが初優勝に輝いたシーズンであるが、この時点では中日にもV2の目は大いに残っていた。オールスター目前ということもあり、前半戦をなんとか良い形で折り返したいのは当然である。

 この非情の采配によって中日は貯金を5に増やし、順位も広島と同率の3位。首位まで0.5差と団子レースに乗り遅れずに済んだ。ちなみにこの時の“4強”はヤクルト、阪神、広島、中日という顔ぶれ。察しのいい方はお気付きだろうが、上位常連の巨人は就任1年目の長島茂雄監督の下、最下位を独走。それまで10年にわたってセ・リーグを牛耳ってきた王者の転落が史上空前の大混戦を生み出したのだった。

 それにしても、昔も今も投手の替え時の難しさは指揮官にとって悩みの種であるようだ。特に個人記録が関わっている場合は、つい情に流されるのが人間というもの。このあと45年間、今日に至るまでどれだけの白星を個人の事情を優先したために落としてきたことだろうか。そういう意味では与那嶺の「勝たなきゃどうにもならん」という割り切りは至言といえよう。

 個人とチームを天秤にかけたとき、個人の方を重んじるのはせめて順位が確定してからにして欲しいと私は思うのだが、現場サイドとしてはそう一筋縄にいくものでもないのだろう、きっと。

 それではまた、ある日どこかで。

 

1975.7.11○中日5-3ヤクルト