ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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ある日のドラゴンズ④三沢イライラ!打線もスミ1沈黙

 日常から野球が消えて早数週間。本来なら一喜一憂に身悶えつつも幸せな日々を過ごしているはずの春なのに、社会は“緊急事態宣言”だの“首都封鎖”だの物騒な言葉で埋め尽くされてしまった。いつ終わるとも知れない未知なる敵との戦いにいい加減うんざりしている方も少なくないだろう。

 というわけで当ブログでは、少しでも読者の皆様に“日常”を感じて頂きたく、過去の中日ドラゴンズの試合の中からランダムにピックアップした1試合に焦点を当てて振り返ってみたいと思う。

 題して「ある日のドラゴンズ」。誰も憶えていない、なんなら選手本人も憶えていないような、メモリアルでもなんでもない「ある日」の試合を通して、平和の尊さを噛みしめようではないか。

 

 

1978年6月20日 vs大洋15回戦

 

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 取れるところで取っておかないと痛い目に遭うのは今も昔も変わらないようだ。

 初回、大洋の先発・斉藤明雄はあきらかに力んでいた。6日前、リリーフで登板してマーチンに浴びた決勝ホームランのショックを引きずっていたのだろうか、この日も早々と先制を許すと、なおも1死満塁で打席には故障の大島康徳に代わって最近スタメンでよく起用される関東孝雄。中日としては一気呵成に行きたいところだが、開き直った斉藤の前に関東は三振、続く金山仙吉も一邪飛に倒れて大量点のチャンスを逸した。

 試合後に斉藤自身「あの場面、2、3点は取られるのを覚悟していた」と振り返ったが、結果的にはここが斉藤を崩す最初で最後のチャンスだった。立ち直った斉藤は持ち前の度胸満点の投球で竜打線をきりきり舞いし、6回からは15人中8人から三振を奪う快投でスミ1完投勝利。ハーラートップタイの9勝目を挙げた。

 一方、中日の先発・三沢淳は試合後、ふてくされたように「もうなんでも聞いてくださいよ」と吐き捨てると、「主審の判定が辛くて頭にきました」と3回で72球という球数からも分かるように際どいコースをことごとくボール判定した主審に怒りの矛先を向けた。

 15日の同カードでは6.2回1失点の好投で白星を飾ったが、この日はまるで別人。と言うより、チーム共々ビジターの大洋戦でとにかく勝てない。三沢は6敗のうち3敗がこのカードで、すべてビジター。チームは開幕から3試合の地方開催を含むビジターの大洋戦で6戦全敗と散々な戦績に終わっている。偶然か何なのか、いずれにせよ厄介な鬼門を作ってしまったようだ。

 

鬼門で惨敗もホームでは…

 

 2019年シーズンのドラゴンズはとにかくマツダスタジアムで勝てずに苦しんだが、1978年は最後まで横浜スタジアムで負け続けた。3試合の地方開催を含むビジターの大洋戦は、なんと最終的に2勝11敗と惨憺たるもの。よほど大洋の戦力が充実していたのかと言えばそうでもなく、大洋4、中日5位で仲良く下位フィニッシュした。

 不思議なのはこれほど苦手な大洋に対し、ナゴヤ球場では気持ちよく勝ちまくったことだ。その内訳、10勝3敗。トータルすると12勝14敗で、シーズン通して見ればほぼ互角に戦ったことになる。日本シリーズでは“内弁慶シリーズ”なんてのが時折あるが、この年の中日と大洋は内弁慶をお互い1年間続けたわけだ。

 ただし、仲良くBクラスと言っても大洋は3位とわずか2.5差と善戦。2年連続最下位の弱小チームが別当監督のもと、少しずつ変わってきたのを予感させた。一方、中利夫監督率いる中日は4位大洋にさえ12.5差の惨敗。そんな中で12勝を挙げた三沢は過渡期のエース的な存在だった。