ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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ある日のドラゴンズ⑤権藤!柿本!ON斬りで接戦モノにす

 日常から野球が消えて早数週間。本来なら一喜一憂に身悶えつつも幸せな日々を過ごしているはずの春なのに、社会は“緊急事態宣言”だの“首都封鎖”だの物騒な言葉で埋め尽くされてしまった。いつ終わるとも知れない未知なる敵との戦いにいい加減うんざりしている方も少なくないだろう。

 というわけで当ブログでは、少しでも読者の皆様に“日常”を感じて頂きたく、過去の中日ドラゴンズの試合の中からランダムにピックアップした1試合に焦点を当てて振り返ってみたいと思う。

 題して「ある日のドラゴンズ」。誰も憶えていない、なんなら選手本人も憶えていないような、メモリアルでもなんでもない「ある日」の試合を通して、平和の尊さを噛みしめようではないか。

 

1964年6月23日vs巨人14回戦

 

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 9回表2死満塁で、打席には長島茂雄。リードはわずか1点。絶体絶命のピンチに、西沢道夫代理監督がマウンドの柿本実のもとに歩み寄った。投げるか、降板するか--2択の問いに柿本は笑みを浮かべて答えた。「自分から招いたピンチだから、自分で火を消します」。

 本当は「長島を迎えて板東(英二)に代えるつもりだった」が、柿本の頼もしい言葉に、西沢は「頼んだぞ」とだけ言って命運を託した。勝負球はスライダー。長島の打球が、ショート今津光男の頭上に舞い上がった。その瞬間、西沢はベンチをすごい勢いで飛び出して柿本を激励した。

 去る6月8日、杉浦清監督の成績不振による休養を受けて西沢は代理監督の任を受けた。しかし発奮材料にはならず、そこから1勝6敗とチームは相変わらずドン底をさまよっている。慣れ親しんだ中日球場で迎えるこのカードも1、2戦はいずれも競り負け、3戦目でようやく挙げた白星は西沢にとって嬉しい地元初勝利となった。「しんどかったが勝ってよかったですよ。中日球場での初勝利? いや、べつにどうってことはないね。ハハハ」。どうってことないと嘯(うそぶ)きながら、喜びを隠しきれていない。西沢の人柄がよく表れたコメントである。

 

共倒れした権藤、柿本の2本柱

 

 快勝ではあるが、全くもって“楽勝”ではなかった。大ピンチは9回のみならず、3回表にも訪れていた。1死満塁、迎えるは王貞治、長島。身がすくんでしまいそうな局面にも、先発・権藤博は至って冷静だった。押し出し覚悟で王の膝下をスライダーで攻め、勝負球はストンと沈むシンカーで空振り三振。続く長島に対しては強気に攻め、この難局を凌いだ。

 西沢が代理監督に就いた際、「うちの投手力は権藤と柿本を中心にしていく」と宣言した、まさにその2人のリレーで挙げた勝利。特に権藤は、ピンチを抑えた直後の3回裏に自ら先制点を叩き出すホームランを放ち、投打で殊勲を立てた。

 しかし、西沢の構想はそう長くは持たなかった。7月に入ると権藤が故障離脱。入団1、2年目の酷使が祟り、遂にその右腕が限界を迎えたのだ。ならばと柿本が権藤の分までシーズン18完投と投げまくったが、15勝した代わりに不安定な投球でリーグ最多の19敗を喫した。期待の2本柱は共倒れし、チームは2リーグ分立後、初となる最下位でシーズンを終えたのであった。

 権藤はこの年のオフ、西沢の進言を受けて打者転向。柿本はこの年まで3年連続15勝以上を挙げていたが、翌年9勝に終わると阪急にトレード移籍。両者共にこの1964年を最後に輝きを失っていった。

 

1964.6.23 ○中日4-3巨人