ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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中日ファンのための読書感想文③

 「本、読んでますか?」

 若者の活字離れが叫ばれて早幾年。町からは書店が消え、電子書籍とやらも今ひとつ定着しているようには思えない。今や一部好事家の嗜みに成り下がった読書だが、かつては映画と並ぶ最高のエンターテイメントだったのだ。楽しいだけでなく、文化的な香りも漂う知的な娯楽。未曾有の事態に見舞われた今だからこそ、持て余した時間を使って良質な本を読もうではないか。

 

 

3冊め「ドラゴンズ裏方人生57年」

 

 足木敏郎という人物をご存知だろうか。

 1953年、豊川高からドラゴンズ入団。1試合だけ出場し、2年限りで引退した。享栄高時代の金田正一との対戦経験あり、と言えばどれほど昔の選手なのかなんとなく想像が及ぶだろう。

 選手としては鳴かず飛ばずで終わった足木さんだが、中日での長いキャリアは引退後に当時としては珍しい球団専属トレーナーに就任したことから本格的に始まる。元々は足木さんをプロにスカウトした宮坂達雄2軍監督の計らいでマネージャー職を打診されたそうだが、既に同職は人員が足りており、自身が入ることで誰かが押し出される形になるのを危惧した足木さんはこれを断ったそうだ。

 そこであらためて打診されたのがトレーナー職。もちろんスポーツ医学など見たことも触ったこともなかった足木さんは鍼灸学校に2年間通い、スポーツマッサージを習得。森徹、江藤慎一、権藤博といった名選手たちの活躍を裏から支えた。62年にはマネージャー就任。このときの様々な苦労話がおもしろい。特に当時のキャンプ事情ときたら、今の感覚からすれば信じがたいほどいい加減なものだったことが知れる。また専属通訳なんかいない時代、外国人選手の話し相手になるのもマネージャーの役割だったという。

 69年には当時まだ国内では巨人くらいしか力を入れていなかった広報係に就任。足木さんが偉いのは、広報とは何ぞやを学ぶために広告産業の本場・アメリカへ自費で渡米。留学という形でドジャースに籍を置き、その時に知り合ったのが後に山本昌の恩師となるアイク生原だというのだ。中日とドジャースとの関係は星野仙一とオマリー会長を中心に語られがちだが、実はそれより10年以上も前に足木さんが地慣らしをしていたわけだ。

 マネージャー業と留学経験で養った英語力が決め手となり、86年には渉外に就任。モッカ、パウエル、ゴメス、バンチといった時代を彩った名選手はもちろん、成績を残せずに帰国したマイナー外国人たちの知られざるエピソードの数々はここでしか読めない貴重なものだ。

 94年の定年後も球団に残った足木さんは、2014年に79歳で退職。選手時代から数えて実に61年間にも及ぶ球団在籍となった(本書の出版は2009年)。それだけ周りから信頼される好人物だったのはもちろんのこと、足木さんは慣れない環境になじもうとする適応力と、そのための努力を厭わぬ勉強熱心さに優れていたのだと思う。

 トレーナーになれと言われれば学校に通ってマッサージを習得し、マネージャーになれと言われれば英会話を学び、広報をやれと言われれば留学までしてしまう意欲。「やりたい仕事と違うので辞めます」と言って退職する若手社員を私も何人も目にしてきたが、足木はそんなこと考えもせず、置かれた環境で全力を尽くす。それが縁を呼び、様々な物語を生み出した。本書はウラ話満載の娯楽本であると同時に、社会人にとって学ぶべきことの多い働き本としても優れている。

 ちなみに足木さんは先日当ブログで発表した「ドラゴンズを創った100人」の40位に登場。長きにわたる功績を考えれば、低いくらいの順位である。

 

「ドラゴンズ裏方人生57年」(中日新聞社)

 

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