ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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水原中日、激動の3年間 後編

後編「波乱」

 

 1968年は世界中で「革命」の風が吹き荒れた年だった。日本では学生運動が先鋭化し、西ドイツで大規模な反体制運動が、フランスでは五月革命が起こり、アメリカでもベトナム反戦運動が激しさを増していった。

 若者たちが既存の体制に反旗を翻し、社会変革を目指したこれらの運動とはやや趣きは異なるが、中日ドラゴンズもまた、創設以来の価値観を覆す人事を実行したという点では「革命」が起こった年だったと言えるかもしれない。

 

前編「就任」はこちらからご覧ください。

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コーチ組閣はさすがの手際良さ

 

 1968年11月14日、紆余曲折を経て中日の新監督に就任した水原茂は、愛知トヨタの山口昇社長、大同製鋼の石井健一郎社長を伴って就任会見をおこなった。地元財界の強力なバックアップを内外に知らしめるかのような異例の形式での会見となった。

 さて、記者との問答をひと通り終えた水原は、今度は単身で(もちろん付き人くらいはいただろうが)名古屋市東区の東海テレビに向かった。8階の応接室で待っていたのは江藤慎一、中利夫、高木守道のレギュラートリオだった。「新監督と主力選手、緊張の初対面」--東海テレビと中日スポーツ主催でこんな座談会が組まれていたのだ。

 「よろしくお願いします! 」

 水原が部屋に入るなり、3選手が威勢よく声をあげた。参加する顔ぶれを事前に知らされていなかったのだろうか、水原は一瞬戸惑いながらも、「こちらこそよろしく。しっかり頼むぜ」と、すぐに笑顔をみせた。

 「中、もう目はいいのかい。噂では失明するような話だったが……」

 「モリミチは背中だったな。その後はどうなんだい」

 「江藤、ヒジはどうかな。酒は慎んだ方がいいぞ」

 さすがは1年間、放送席から厳しい視線を送ってきただけあって、各選手の状態を的確に把握していた水原は、ざっくばらんな口調で3選手の体調を気遣った。それと同時に「オフの間に徹底的に治しておかないとキャンプできっと再発する。その点よく考えて治療にあたってくれ」としっかり釘を刺すのも忘れなかった。

 真面目一筋の高木だけは最後まで両手を前に合わせたまま固い表情を崩さなかったようだが、冗談まじりに喋りまくる水原の話術に、中、江藤は終始笑顔を絶やさなかったという。

 翌15,16日は秋季練習がおこなわれている中日球場を訪れ、全選手に挨拶を済ませてひとまず帰京。さっそくコーチ陣の組閣作業に取り掛かると、まっさきに声をかけたのが慶應大の後輩であり解説者として人気を博していた宇野光雄だった。巨人監督時代の54年に自らの手で国鉄に放出した宇野をいの一番に呼び戻すのが、いかにも義理堅い水原らしい。

 続いて54年のドラゴンズ日本一経験者、大島信雄を招聘。こちらも慶應大の出身者。さらに南海から森下整鎮をファームコーチとして引き抜いた。森下はこの年、酒癖の悪い選手を殴打したことが問題視されてスカウト部に異動になったばかりだった。

 一部では「慶應閥だ」「失業者救済だ」との批判もあがったようだが、これだけの面子をものの1ヶ月やそこらで集めてしまう手際良さはさすがのもの。なんでも監督就任が決まるやいなや、自薦他薦30人以上の候補者リストがたちまちできたそうだから、高松商-慶應大-巨人とエリート街道を歩んできた水原の人脈たるや恐るべしである。

 ちなみに当時、子供たちの間で人気を博した「巨人の星」の作中で、主人公・星飛雄馬の父・星一徹が巨人OB同士の交情からヘッドコーチに招かれ、ドラゴンズのユニフォームに袖を通したもう一つの“史実”も忘れてはなるまい。

 

燃える男、入団

 

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▲笑顔をみせる星野と、“御大”島岡吉郎監督(右)
(中日スポーツ1968年11月13日1面)

 

 少し日にちは前後するが、水原政権にとっても、その後の中日球団にとっても欠かすことのできない重要なトピックスに触れておきたい。

 水原の監督就任が決定する2日前の11月12日、新人選択会議、俗にいうドラフト会議が日比谷の日生会館にておこなわれた。65年から始まり、4年目を迎えたこの年のドラフト会議はこれまでにない大きな世間の注目を集めていた。

 山田久志、東尾修、山本浩司*1ら7人の名球会選手を輩出し、後に「史上最高の当たり年」と称されるほどの多彩な顔ぶれに恵まれたこと、前年まで非公開でおこなわれていたが、この年から一部がメディアに公開されるようになったこと、そしてこれまで入団拒否者が続出するなど“水商売”のイメージが強かったプロ野球選手の地位が、ON人気に牽引されて飛躍的に向上したこと。

 これらの要素が重なり、65年のドラフト会議は世間の一大関心事となったのである。

 なかでも目玉は「法政三羽ガラス」と謳われた山本、田淵幸一、富田勝の動向。特に田淵は長島茂雄の持つ六大学通算8ホーマーを大きく塗り替える22ホーマーの新記録を樹立したスラッガーとして人気を集め、巨人を含めて最大5球団の指名が予想されていた。

 しかし中日は球団創設時から縁の深い明大*2で、主将も務めていたエース・星野仙一の指名を早い段階から決定。当日も競合することなくスムーズに交渉権を獲得し、その後30年以上に渡ってチームの“顔”として君臨することになる稀代の大物が、いよいよ中日の一員となったのであった。

 

初年度は4位発進

 

 かつてない期待感をもって開幕を迎えた水原ドラゴンズの船出は、意外にも厳しいものになった。開幕カードの広島戦を負け越すと、そこから巨人、阪神に計6連敗。開幕から8試合で本塁打ゼロは当時のセ・リーグ新記録だった。

 5勝10敗に沈んだ4月とは打って変わって、5月は12勝10敗1分と健闘。水原の掲げたスローガン「ギブアップしない野球」が浸透してきたのだろうか、6月は6連勝を2度記録するなど12勝6敗1分と収支もプラスに転じ、7月17日の前半戦終了時点で33勝31敗2分、首位巨人に3ゲーム差、阪神に0.5ゲーム差の3位につけてAクラスでシーズンを折り返した。

 現在よりも長い7日間のオールスター休養中、ドラゴンズの選手たちは後半戦の反抗に向けて中日球場で汗を流していた。他方、人気者の水原は甲子園、平和台球場でおこなわれたオールスター第2,3戦にテレビ中継のゲスト解説者として出演するため、チームをコーチ陣に預けて遠征に出かけた。このことが、後に起こる“波乱”の引き金となる。

 25日に再開したペナントレース。ここでドラゴンズは最初の9試合で1勝8敗と派手に転倒。片や巨人は6勝3敗、阪神も5勝4敗と堅実に勝ち越したのだから、ひとたまりもない。結局8月は6勝15敗3分と大きく負け越し、優勝どころか最下位まで0.5差の5位にまで順位を落としてしまった。9月になると10連勝を含む13勝4敗と復調するが、あとの祭り。水原ドラゴンズの1年目は59勝65敗6分、V5を達成した巨人とは14ゲームを離されての4位という結果に終わった。

 こうなるとよそ者に冷たいのが名古屋の気質で、天下の水原もこんなものかと陰口を叩かれたり、挙句はオールスター中の練習不在を持ち出して批判される始末であった。

 

江藤慎一トレードの衝撃

 

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▲伝説の“江藤放出”。すべてはこの紙面から始まった
(中日スポーツ1969年11月18日1面)

 

 日本シリーズも終わり、ストーブリーグや契約更改の話題が球界を賑わせていた11月18日、中日スポーツが1面で衝撃のスクープを掲載した。

 「巨人、“江藤兄”申し入れ」--記事によれば、兼ねてからトレードの可能性が取り沙汰されていた江藤慎一を、もし中日が本当に出す予定があるのならぜひ譲ってくれと、巨人・前川八郎スカウト部長が東京・銀座日航ホテルに中日の土屋享球団総務を招いて正式に申し入れたのだという。

 当時の巨人は実力、人気ともに絶頂期にあったが、ONに続く5番打者だけがどうしても固定できずにいた。そこで球界を代表する強打者の江藤を獲得し、“ONE”の最強クリーンアップを形成しようというわけだ。そのために放出されていたであろう交換要因を含め、もし実現していればプロ野球の歴史は大きく変わっていたに違いない。

 あまりに唐突な要請に球団幹部も相当戸惑ったようだが、誰よりも動揺したのは言うまでもなく江藤本人だった。27日付の同紙1面で、江藤は胸中を告白。10年在籍した中日への愛着を語ると共に、あらためて残留希望を強く訴えた。

 そもそものきっかけは、オールスター中の“監督不在”の一件にあった。江藤はチームが後半戦に向けて一致団結しようという中で、解説業のために留守にした水原を公然と批判。これが「反目」とみなされ、江藤と水原の確執は球界では知らぬ者のないゴシップになっていた。

 そこで放出を見込んだ巨人が先手を打ち、先の会談を仕掛けるのだが、江藤からしてみればまさか本当に自分が放出されるとは思ってもみなかったのだろう。記事での受け答えは、普段のふてぶてしさからは想像もできないほど弱々しいものだった。

 「僕は深く反省している。確かにシーズン中、監督に対して批判的な発言をした。これは、いま冷静に考えてみていけなかったと思う。球団が水原体制でいる以上、一選手の僕がとやかく言うべきではなかった」

 しばしば批判の槍玉にあがった副業(1964年から「江藤自動車」という自動車整備工場を経営。30人ほどの従業員を抱えるまでに成長していた)に関しても経営から離れて野球に専念する意向を示すなど、いわば全面降伏する形で残留を訴えたわけだが、江藤がプライドを捨てて球団への忠誠を誓っていたその頃、既に水原は新外国人補強のためにアメリカへと発っていた。「江藤兄に放出を宣告」の見出しが1面を躍ったのは、水原が帰国するより前、12月7日のことだった。

 

江藤事件の顛末

 

 江藤のトレード先はロッテが濃厚とされた。放出の噂が流れたあと、ロッテ・永田雅一オーナーと中日・小山社長が数回に渡って会談。既に巨人も同様の申し入れをしていたが、さすがに同一リーグで5連覇中のチームにおいそれと譲り渡すようなことはなく、利害関係の薄いパ・リーグの球団に落ち着いた格好だ。

 ところが江藤はこれを拒否した。「中日で始まり、中日で終わる」との信念を断固として曲げなかったのである。12月23日にアメリカから帰国した水原は、あらためて「江藤は来季構想にない」と明言。進展のないまま、遂に同月26日、中日は連盟に対して江藤を任意引退選手とする手続きをとった。

 年が明けると江藤は雑誌「現代」「文藝春秋」など複数のメディアで大々的に水原批判を展開した。オールスター事件のあと水原邸を訪ねて土下座したことや、アメリカナイズドされた水原野球がいかにドラゴンズを悪くするか、水原が大切にしているのはファンではなく財界人だ--等々、これでもかと内情を暴露したが、話のほとんどは「どうせ〜に違いない」「おそらく〜だろう」という当て推量に終始していた。

 先述した東海テレビでの座談会の際にかけられた「酒は慎んだほうがいいぞ」という何気ない心遣いでさえ、江藤に言わせれば「おそらく水原さんは、財界人のどなたかに、“江藤という人間は向こうっ気の強い男だから、一発やって出鼻をくじいておいたほうがいい”と教え込まれたに違いない」のだそうだ。

 一方、水原はこのトレードがあくまで編成上のものであるとのスタンスを崩さず、「感情的対立だと言われている。これは私としては非常に迷惑な話」と反論している。今となっては真相は藪の中だが、少なくとも現在まで語り継がれている「江藤は水原との確執で放出された」という定説は、いささか江藤の言い分に寄りすぎている感がある。重ねて確認しておくが、中日球団ならびに水原はこのトレードを「チームの若返りを図るため」だと説明している。確たる証拠が出てこない限り、こちらを公式見解として扱うべきだろう。

 

黒い霧と小川健太郎

 

 チームの看板打者の放出。しかも原因は監督との確執らしい--いかにもゴシップ好きの世間が食いつきそうな話だが、意外にもこの一件はそれほど波及することなく収束していった。球団や新聞社に多少の抗議電話はあったようだが、その数も新聞の不買運動にまで発展した田尾安志トレード時のそれとは比にならない程度のものだった。

 このとき世間の関心は、もっと大きな問題に集まっていた。西鉄の複数の選手が金銭の授与の伴う八百長行為に関与したとされ、11月には永久追放者も出した、いわゆる「黒い霧事件」である。

 中日は12月15日付で西鉄の選手に八百長を広めた張本人とされる田中勉を「右肘の怪我の状態が思わしくない」ことを理由に事実上の解雇とし、幕引きを図ったが、もはや西鉄だけに留まらず、球界全体に広がりを見せていた「黒い霧」は否応なく他球団をも包み込んでいった。そして疑惑の目は、前年20勝をあげたエース・小川健太郎にも向けられたのである。

 水原体制2年目は、江藤と入れ替わるようにして早大からドラフト1位で谷沢健一が入団、またミラー、バビーの両外国人も加わり、ガラッと生まれ変わった布陣で開幕を迎えた。しかし4月29日、毎日新聞が「セのO投手浮かぶ 八百長オート」という記事で小川がオートレースの八百長に関与したと告発。奇しくもこの日のナイター広島戦の先発予定は小川だった。

 小川は20歳のときに一旦は東映に入団するも、肩の怪我によりわずか2年で退団。その後ノンプロを経て64年、30歳にして中日から誘われてプロ復帰すると、2年目には17勝、さらに4年目の67年には29勝をあげて沢村賞を獲得した。今となっては中日の背番号「13」も岩瀬仁紀のイメージに塗り変わったが、それまではこの異色のアンダーハンドが長きにわたり筆頭を務めてきた。王貞治に投じた背面投げばかりが話題にのぼりがちだが、短期間ではあっても間違いなく小川は球団史に残るエースの一人である。

 その小川に突如としてかけられた嫌疑。実はこの前日、小川に捜査の手が伸びていることを知った水原は本人を呼んで真偽を確かめていた。「絶対大丈夫です。やましいことはやっていません」という返答に、「それなら予定通り明日先発させる」と水原は半信半疑ながらシロの心証を強めたという。もしシロなら堂々と胸を張って疑惑を粉砕するような投球をするだろうし、クロなら動揺から投球も乱れるはずだ。監督歴20年の水原がそう読んで送りだしたマウンドで、小川は味方の取った1点を守り切る見事な好投をみせた。8回2/3無失点。しかしこれがプロ野球選手・小川健太郎の最後の登板となった。

 5月6日、小川は警視庁に出頭、小型自動車競走法違反の容疑で逮捕された。

 

失意の5位も新たな芽生え

 

 球団の判断とはいえ前年までの4番打者が抜けたところに、ある日突然エースまでいなくなったのだから痛いどころの騒ぎではない。2年目の水原ドラゴンズは浮上のきっかけすら掴めないまま8月以外の全ての月で負け越し、55勝70敗5分の5位という成績でシーズンを終えた。中日球場の開場以来、初めて敵チームの胴上げを本拠地で目の当たりにする屈辱も味わった。宙を舞ったのは、言うまでもなく川上哲治。巨人V6達成である。

 小川の逮捕は戦力どうこう以上のショックをチーム内に与えたようだ。特に水原は、元々のギャンブル依存を見抜き、再三にわたって注意したにもかかわらず裏切られてしまったのがよほど堪えたのだろう。「私も謹慎しなければ……」と弱々しく取材を受ける姿は、20年来の付き合いがある記者いわく「こんなに打ちひしがれた姿を見たのははじめてである」とのこと。闘志あふれる指揮姿が魅力の大監督がこれでは、チームのムードが上がらないのも致し方がない。

 ただ、負け試合の中にも光明は散りばめられていた。新人谷沢が打率.251、11ホーマーの活躍で新人王を獲得、投げては2年目の星野仙が二桁10勝、渋谷幸春も9勝と気を吐けば、新人松本幸行が早くも完封を飾るなど、着実に次代を担うべき若手の芽は育ち始めていた。

 

躍進の1971年シーズン

 

 水原は契約最終年となる3年目のシーズンに向け、ドラフト会議で日本軽金属の稲葉光雄を2位で指名。いきなり背番号「18」を与えたところにも期待の高さがうかがえる。また当て外れに終わったバビーに代わって守備職人の遊撃手バートが加入した。

 主だった補強はこのくらいだが、目新しいところでは高松商出身で水原の後輩にあたる西村正夫をヘッドコーチとして招聘、衰えが顕著だった中が選手兼任でコーチに就任したのもこの年である。また他球団ではヤクルトの監督に三原脩が就任。野球人生の最晩年にあたって終生のライバル同士が11年ぶりに同一リーグで相まみえたのを、運命と呼ばずして何と呼ぼうか。

 

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 前年の成績から下馬評も振るわず、4,5月で13勝19敗4敗と開幕スタートには例の如く失敗した。快調に走る首位巨人とは早くも10ゲーム差を付けられる苦しい出足。そんな折にあって4番打者のミラーが負傷離脱し、窮地に立たされたチームを救ったのは高卒3年目、まだ20歳の大島康徳だった。

 ドラフト3位で投手として入団するも、素質を見抜いた水原の進言で打者に転向。1年目から4番で使い続けた本多逸郎二軍監督が自信を持って送り出したこのラッキーボーイは、プロ初出場初スタメンの6月17日、ヤクルト戦でいきなりバックスクリーンに特大弾を放り込んで度肝を抜いたのだ。

 この若武者ならぬ若竜の存在が、死に体だったチームを生き返らせた。翌日から引き分けを挟んで7連勝と波に乗ると、オールスター時点で32勝35敗2分の4位と十分Aクラスを狙える位置まで復調を果たしたのである。

 夏場に入るとペナント争いも熾烈さが増し、順位も乱高下したが、チームを勢いづけたのはやはり若手の活躍だった。8月26日、後楽園での巨人戦は、4-4のまま互いに譲らず延長戦に突入。水谷寿伸-松本と継投をつなぎ、11回には新人の稲葉を投入した。同点のまま迎えた14回表、島谷金二の放った打球が左中間スタンドへライナーで飛び込んだ。これが値千金の決勝弾となり、負ければ最下位転落となる剣ヶ峰をギリギリで堪えた。

 島谷は過去、3度にわたりドラフト指名を蹴った異色の経歴の持ち主だが、高松商の大先輩にあたる水原から直々の指名を受け、遂にプロ入りを決意。初年度から三塁のポジションを任された正真正銘の“水原チルドレン”だ。

 勝利投手になった稲葉はこれがプロ初勝利。思わずインタビューで嬉し涙を流した初々しい新人に、大事な試合の延長を預けた理由を問われると、水原はこう答えた。

 「奇策ではない。調子がいいので使ったのだ」

 海千山千の大監督の嗅覚が冴え渡り、窮地を脱したドラゴンズはその後も快進撃を続け、9月には前半戦まで好調だった三原率いるヤクルトが急降下していくのを尻目に、2位にまで順位を上げていった。

 

水原、突然の辞任

 

 4年ぶりのAクラス、2位が決定した10月3日の巨人戦の試合後、水原はあふれ出る涙を堪えながら「これをきっかけに今度こそ真の優勝体制に持っていくチームづくりを考えなければならぬ」と決意をにじませた。そして「この涙はうれし涙じゃない。選手がここまでよくやってくれた感謝の涙だ」とも語った。しかし翌朝、かつて評論家として所属したスポニチが単独スクープで「水原 退任」を報じた。大本営の中スポには、そんなことは一言も書かれていないにもかかわらず、だ。

 その日、水原はスポニチの報道どおり、「今シーズン限りでユニフォームを脱ぐ」と引退を表明した。理由は健康上の問題。球団はあくまで非公式の発言とし、全日程終了を待って話し合うとしたが、水原は「すでに社長には伝えた。もうユニフォームを着る意思がないのだから決意は変わらない」と、さっぱりした表情で言い切った。

 中日新聞社としては寝耳に水の引退表明。おまけに他紙にスクープを持っていかれたとあって、内部では水原に対して“裏切りだ”と憤る向きもあったようだ。

 

思わぬ胴上げで有終を飾る

 

 10月8日、川崎球場でおこなわれた大洋戦が水原の指揮した最後の試合になった。試合にこそ敗れたが、大島、谷沢、島谷といった就任時にはいなかった選手たちが躍動する光景は、3年前のドラゴンズとは全く違う“水原のチーム”に生まれ変わったことを物語っていた。

 試合後、選手食堂で会見を終えると、記者団の中から自然発生的に拍手が起こった。それに見送られながら廊下へ出ると、今度は待ち構えていた中日、大洋両球団のファンの渦に巻き込まれ、「胴上げだ! 」という誰かの掛け声を合図に水原の体はもみくちゃのファンの上に担ぎ上げられた。訳もわからず宙を舞う水原をよそに、川崎の夜空に万歳三唱の絶叫がとどろいた。

 大正12年、高松商野球部入部。以来、応召、シベリア勾留の約6年間を除き、水原の人生は常に野球と共にあった。少々手荒ではあるが、胴上げは日本の野球史そのものとも言える名将への、野球ファンからのせめてもの餞別だった。

 

激動の3年間

 

 そういえば会見の席で水原は、ドラゴンズの未来についてこんな展望を語っていた。

 「3,4年先に巨人のONの力が衰えたときには、どのチームも対等になる。その時には、本当に実力で優勝を争えるチームに中日がなって欲しい」

 この願いは、予言通りに3年後、水原が我慢強く起用した島谷、松本、渋谷、谷沢、大島、稲葉、そして星野仙といった面々が主力に成長した74年シーズンに現実のものとなった。中日では優勝を果たせなかった水原だが、その撒いた種が、後のチーム発展の礎となったのは疑いようもない。

 監督を引退した水原はその後、72年から再び解説者に転身。あいかわらずの歯に衣着せぬ評論で人気を博した。特に75年、長島茂雄の監督就任以降は青田昇、千葉茂らと共に長島に容赦なく物申せる数少ないOBの一人として活動。また衰えのみられた晩年の王貞治や、81年に巨人の監督に就任した藤田元司に対しても切れ味鋭く(愛のある)批判を展開した。

 だが水原はユニフォームを脱いでから82年に死去するまで、中日の監督時代を振り返ることは皆無に等しかった。その野球人生を400ページに渡って綴った自著伝「華麗なる波乱」(ベースボールマガジン社/絶版)でも、中日時代に言及したのは最後の1ページ、わずか4行に過ぎない。

 中日の歴史としても、敢えて水原時代を振り返る機会は極めて少ないように思う。テレビの特集等で名場面が紹介される際にも、大抵古い映像となると54年の日本一か74年の優勝がピックアップされ、その狭間にあたるこの3年間が取り上げられるのを、ついぞ見たことがない。

 しかしこうして繙(ひもと)けば、水原政権がいかに中日の球団史において重要かつ激動の3年間だったのか、そして水原茂という人物がどれほどの功績を遺したのか、多少はお分かり頂けたはずだ。この時代を歴史の片隅で眠らせてしまうのは、あまりにも惜しすぎる。

 

水原を追い越した星野仙一

 

 水原が遺した有形無形の財産のなかでも、一番弟子にあたる星野仙一はその後、監督として中日を2度のリーグ優勝に導いたほか、優勝請負人として阪神、楽天という当時の弱小球団を率いた点でも、“オヤジ”の歩んだ道を追随したといえるかもしれない。

 ただし水原が3球団目、つまり中日では優勝できなかったのに対し、星野は楽天でも優勝、日本一を飾った。自分を追い越した愛弟子に対して水原はどんな言葉をかけ、星野はどう言って恐縮するのか。空の上で交わされているであろうやり取りを、つい見たくなってしまうのは野球好きの性か。

 

 春がきた。水原がその人生を捧げた「野球」が、今年もまた始まろうとしている。

 

《完》

 

参考文献

【新聞】

『中日スポーツ』

1968年

1月18日1面

11月7日1,2,3面

11月12日1面

11月13日1面

11月15日1,2,3面

11月16日1面

1969年

11月18日1面

11月27日1面

12月4日1面

1971年

8月27日1面

10月4日1面

10月5日1面

『毎日新聞』

1970年4月29日19面

『読売新聞』

1970年5月2日夕刊9面

『朝日新聞』

1970年5月6日夕刊11面


【雑誌】

『現代』(講談社)

1968年2月号

1970年3月号

『文藝春秋』(文藝春秋)

1970年3月特別号

『週刊文春』(文藝春秋)

1969年1月6日号

『週刊ポスト』(小学館)

1970年5月29日号

『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)

1968年

2月19日号

7月22日号

8月19日号

1969年

10月13日号

1970年

2月9日特大号

1971年

9月27日号

10月25日号

11月15日号


【資料】

『中日ドラゴンズ40年史』(中日新聞社/絶版)

『中日ドラゴンズ80年史』(中日新聞社)

『激動の昭和スポーツ史 プロ野球 下』(ベースボール・マガジン社/絶版)

『読売新聞発展史』(読売新聞社)


【書籍】

水原茂『華麗なる波乱』(ベースボール・マガジン社/絶版)

大和球士『真説 日本野球史 昭和編その1〜3』(ベースボール・マガジン社/絶版)

小関順二『「野球」の誕生: 球場・球跡でたどる日本野球の歴史』(草思社文庫)

梶原一騎、川崎のぼる『巨人の星 13,14巻』(講談社コミックス)


【web】

高橋安幸『「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」第7回 柳田真宏・前編』(web Sportiva)

ドラ魂キング『追悼・燃える男 星野仙一、最後のラジオ生出演。あの「落合トレード」の真相を語る』(RadiChubu)

日本プロ野球記録


【イラスト提供】

子に語り継ぐドラゴンズ愛さん(@kataDORA2019

 

*1:1975年から登録名「浩二」に変更

*2:中日の前身である名古屋軍の創設者・田中斉は同大出。また1968年までに監督を歴任した14人のうち6人が同大出。中退の野口明を含む