ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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水原中日、激動の3年間 前編

前編「就任」

 

 1968年は世界中で「革命」の風が吹き荒れた年だった。日本では学生運動が先鋭化し、西ドイツで大規模な反体制運動が、フランスでは五月革命が起こり、アメリカでもベトナム反戦運動が激しさを増していった。

 若者たちが既存の体制に反旗を翻し、社会変革を目指したこれらの運動とはやや趣きは異なるが、中日ドラゴンズもまた、創設以来の価値観を覆す人事を実行したという点では「革命」が起こった年だったと言えるかもしれない。

 

 本来なら中日・水原茂監督の就任から退任までの3年間の軌跡をすぐにでも振り返りたいところだが、何しろ50年以上も前の話である。当時の時代背景、ドラゴンズを取り巻く環境をある程度理解していないと、なかなか飲み込みづらい部分もあるだろう。

 この特集では就任に至るまでの経緯を「前編」、就任後の3年間を「後編」として、前後編に分けてお届けしたいと思う。リアルタイムで当時を見てきた方や、既に知識を持っておられる方には、この「前編」はやや冗長にも感じられるかも知れないが、あらためて状況をおさらいする意味でも、お付き合い頂ければ幸いである。

 

華麗なる球歴

 

 水原茂といっても、このブログを読んでいるほとんどの人にはなじみがなかろう。

 水原は1909年、香川県高松市に生まれた。元号に直すと明治42年。戦前どころか明治時代を生きた「歴史上の人物」と言っても大袈裟ではない。本編に入る前にまず、水原の経歴をごく簡単ではあるが振り返っておく。

 旧制高松商業学校(現・香川県立高松商業高)では25年夏、27年夏の2度、全国制覇を達成。元々、四国は教育熱心な土地柄であり、特に経済人の養成校として設立された同校からは後の日本経済を支えた錚々たる顔ぶれの経営者が多数、排出された。後年、水原が政財界の大物達と懇意にしたのもこうした背景があった。

 慶應大では六大学野球の看板選手として活躍したが、六大学野球2大不祥事の一つといわれる「リンゴ事件」で主役となったのち、麻雀賭博で検挙されて野球部を除名された。早大の三原脩とは生涯を通じてライバル関係にあり、その関係性はプロ野球の歴史を紐解いても唯一無二ともいえる深く、濃いものであった。

 31,34年の大リーグ選抜来日試合で全日本チームに選出されるなどした後、36年に日本職業野球連盟の結成に伴い東京巨人軍に所属。三塁手として活躍し、7度の優勝に貢献したが、42年シーズンを最後に応召*1。終戦後も過酷なシベリア抑留を経験した。

 49年にようやく帰国すると、東京駅に到着した7月24日、その足で巨人と東映の試合が行われていた後楽園球場に赴き、超満員の観客の前で丸坊主姿で挨拶をした。このときの「水原茂、ただいま帰って参りました」の台詞はあまりにも有名。花束を渡し、固い握手を交わしたのが巨人・三原監督だったのも運命的だ。

 翌50年、その三原に代わって巨人監督に就任(三原は“総監督”という名ばかりの閑職に就いた)。56年には三原率いる西鉄と日本シリーズの舞台で対戦。両者の戦いは「巌流島の決戦」と呼ばれ、国民的な注目を集めた。この年から3年連続で日本シリーズは同じ顔合わせとなったが、すべて三原に軍配が上がった。特に58年、先に巨人が3勝して王手をかけるも、第4戦から稲尾和久の連投に次ぐ連投で4連勝した西鉄が逆転日本一を収めたシリーズはプロ野球史に残る名勝負と語り継がれている。

 60年、巨人退団。翌61年から7年間、東映フライヤーズの監督を歴任。1年空いて69年から中日ドラゴンズ監督を3年間務めた。その後、野球解説者として活躍。82年、心不全のため死去。73歳没。83年、野球殿堂入り。

 

巨人、東映での栄光の時代

 

 1954年の優勝以外は2位と3位を行ったり来たりした50年代のドラゴンズ。この時期、我が世の春を謳歌していたのが水原茂*2率いる巨人軍だ。巨人の黄金期といえば1965-73年、川上哲治監督の下でのV9のイメージがあまりに強烈だが、実はこれは第3次黄金期にあたる。藤本定義監督に率いられ、10シーズンで6連覇を含む8度の優勝に輝いた36-43年*3が第1次黄金期。そして水原監督の下、54年以外の全てのシーズンで優勝した51-59年の9年間が第2次黄金期といわれる。

 戦前から六大学野球のスターとして野球界を牽引してきた水原はこの成功によって鶴岡一人、三原脩と共にプロ野球初期の「3大名将」に数えられ、82年に73歳で逝去するまで球界の大家として君臨した。巨人にとっても創設期から在籍した大物中の大物であるが、60年の監督退任は決して“勇退”などと格好の良いものではなく、正力松太郎オーナーとの半ば喧嘩別れに近い形での“辞任”だった。

 選手時代から数えて25年間(43-49年の応召、シベリア抑留期を含む)、着慣れた栄光のユニフォームに別れを告げた水原だったが、巨人を離れた水原を他球団が放っておくはずもない。60年の暮れには東映フライヤーズの大川博オーナーが水原邸を訪ね、「私の球団をあなたにすべてお任せしたい」と全権委任を前提に監督就任を哀願した。

 当時の東映は46年の創設以来、Aクラス入りは59年の一度だけといういわゆるお荷物球団の代表格。赤字もかさみ、球団を手離すことも考えていた大川が文字通り最終手段として泣きついたのが、巨人を退団したばかりの水原だった。「金は出すが口は出さない」の口説き文句にやられた水原はこれを快諾。三顧の礼で新監督に迎えられると、初年度から壮絶な優勝争いを繰り広げての2位に着け、翌62年にはルーキー・尾崎行雄の活躍などもあり、就任わずか2年で日本シリーズ制覇を成し遂げたのである。

 終生のライバル・三原が万年最下位の大洋をいきなり優勝へと導いたのが2年前のこと。水原もまた弱小球団を率いて即座に結果を出したのだ。

 しかしこの頃から、東映を“パ・リーグの巨人”にすべく補強の必要性を訴える水原と、当初の約束を反故にして「口は出すが金は渋る」ようになった大川オーナー父子との間に亀裂が生じ始め、結局7年目の67年限りで一度たりともBクラスに落ちることなく「解任」された。巨人を辞めた時と同じくオーナーとの対立が原因だった。

 

混迷の1960年代ドラゴンズ

 

 優勝こそ1度きりだったが、Aクラスを走り続けた1950年代から一転、Bクラス転落で始まった60年代は、ドラゴンズの歴史上でも混迷を極めた時代だった。

 わずか2年間で杉下茂監督が解任されると、翌61年は二軍監督を1年間務めた濃人渉が昇格。初年度こそルーキー・権藤博の一人舞台ともいえる活躍もあって2位に押し上げたが、チーム改造を試みた濃人はベテランの井上登を南海へトレードに出したのを皮切りに、個人的に対立していた主砲の森徹を大洋へ、さらに大矢根博臣、岡嶋博治、吉沢岳男といった生え抜きの主力選手を次々に放出。このときのファンの猛烈な反感は相当なものだったようで、中日球場では毎日のように壮絶な野次が飛び交ったそうだ。

 2年の在任で2位、3位と結果だけ見れば悪くないが、権藤の酷使との引き換えだった感は否めない。逆にこれだけ大胆にチームを改造しながら優勝できなかったことでファン、タニマチから総スカンを食らった濃人に球団も見切りをつけ、62年度の納会が終わった直後の12月10日に突如として濃人の解任、ならびに杉浦清の15年ぶりの監督復帰*4を発表したのである。

 与那嶺要を除くすべてのコーチ陣を入れ替えた第2次杉浦政権は春先から勝ち星を重ね、初年度は全球団に勝ち越しながらの2位という珍記録を打ち立てた。4年目の高木守道がレギュラー定着し、50盗塁で初タイトルを獲得したのもこの年である。球団内外の大きな期待を受けた64年は、懸案の捕手陣を強化すべく中京大の木俣達彦を獲得。このほか一枝修平、小川健太郎といった即戦力を加え、悲願達成に向けて万全を尽くした。

 しかし東京五輪の開催に伴い、例年より早く始まった3月21日からの開幕カードで大洋に3タテを喫してつまずくと、6月7日には早くも杉浦監督の休養が、翌8日には西沢道夫コーチの代理監督昇格が発表された。西沢は夏場に中日の元監督*5・坪内道典をヘッドコーチに迎え入れるなどチームの立て直しを図るも調子は上向かず、2リーグ分立後初となる最下位に転落。明るい話題といえば、6年目の江藤慎一が打率.323で首位打者を獲得。三冠王を狙った王貞治を阻んだことくらいだった。

 V9がスタートした65年は代理監督の西沢が昇格。前年の最下位からさしたる補強もなく厳しい戦いが予想されたが、小川の17勝を筆頭に二桁勝利が4人誕生*6。中でも板東英二は「8時半の男」こと宮田征典に対抗するかのように逃げ切りの切り札として投入され、「西の板東、東の宮田」とも称された。打つ方では4番江藤が前年に続いて首位打者を獲得。また高木守、中利夫の1,2番コンビが揃って打率10傑に名を連ねるなど投打が噛み合い一気に2位に飛躍した。

 結論から言えば西沢はドラゴンズの歴史上でも指折りの優秀な監督だった。就任3年間はいずれも2位。それでも優勝に手が届かなかったのは、ONが全盛期を迎えた巨人があまりに強すぎたからである。3年間の首位とのゲーム差は、13.0、13.0、12.0。特に66年は、その巨人に対して6勝20敗とまったく歯が立たなかった。この時期、西沢は「こんな強い巨人とぶつかるのは、私の現役時代を通じても初めてではないか」と漏らしている。巨人とそれ以外のチームとのレベル差は、もはや如何ともし難いほどに広がり過ぎていた。

 

強まる“読売”への対抗意識

 

 この頃、巨人の親会社である読売新聞はONの国民的な人気に引っ張られる形で発行部数を飛躍的に伸ばしていた。元々、1950年代までは朝日新聞、毎日新聞に次ぐ第3勢力だった読売新聞だが、主要3紙では唯一保守的な論陣を張ったこと、また巨人戦のチケットを特典にした勧誘が功を奏し、プロ野球の隆盛と共に劇的な急伸を遂げたのだ。

 52年に大阪本社、59年に札幌支社、64年には北九州市に西部本社を構えるなど飛ぶ鳥を落とす勢いで全国へと販売エリアを拡大する中、唯一東海圏だけは圧倒的なシェアを誇る中日新聞を前に、さしもの読売とて簡単には手を出せずにいた。しかし、いつまでも読売が指をくわえて眺めているはずもなく、いずれ東海圏にも進出してくるのは時間の問題だった。

 野球では歯が立たず、本業の新聞でもシェアを奪われたのではたまったものではない。この時期から中日-巨人戦は親会社の代理戦争という色合いが急速に強まり、特に中日サイドの巨人への対抗心は憎悪にも似たものになっていたようだ。

 2017年12月、逝去する直前の星野仙一がCBCラジオのドラゴンズ応援番組に久々に出演した際、こんな興味深いことを言っている。「もともと僕は巨人があんまり好きじゃなかった。で、名古屋へ来たら中日新聞と読売新聞の新聞戦争じゃないですか。(中日)本社の方は巨人とかジャイアンツと言わないんですよ。“読売”に勝てと」。

 

西沢辞任、杉下も超スピード解任

 

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▲西沢の辞任はあまりにも突然だった
(中日スポーツ1968年1月18日1面)

 

 1968年1月17日、既に組閣も終え、キャンプを間際に控えたこの時期に、突如として西沢監督の辞任が発表された。持病の十二指腸潰瘍が悪化し、「体調に自信が持てなくなった」という。周囲は必死に慰留したが西沢の辞意は固く、球団は急遽、杉下茂に監督就任を要請。あまりに突然のことに「今は返事のしようがない」と即日の受諾こそならなかったが、25日付で正式な就任が発表された。

 前回監督時はチームが新旧顔ぶれの過渡期にあったこと、また杉下自身の指導者としての経験の浅さも祟って乏しい結果に終わったが、その後毎日、阪神で指導者経験を積んだ上での8年振りの再登板である。球団から「選手を育てて欲しい」と頼まれた前回と異なり、今回は巨人を倒しての優勝こそが唯一にして最大の至上命令。杉下自身も「今年1年で勝負する」と野球生命を賭して臨むことを決意表明した。

 だが、この年から評論家に転身した水原茂は「週刊ベースボール」68年2月19日号で、「途中からの就任であるため、一心同体であるべきコーチ陣とうまくいくかどうか」と不安要素を指摘。西沢監督を前提とした組閣に変更は無く、いわば首長だけが交代する異例の人事であり、自分で選んだわけではないコーチ陣と大海を渡るのは困難だろうというわけだ。

 杉下はまず強力打線を誇る巨人に対抗するべく投手陣の整備に乗り出し、西鉄から5年連続二桁勝利の田中勉を獲得。ローテ投手の補強により上々の評価を受け、優勝の大目標に向けて発進した第2次杉下政権だったが、そもそも就任からわずか3ヶ月の短期間でチームを掌握し、長いペナントレースを戦い抜くのは、水原の指摘通り無理があった。

 4月こそ13勝6敗と順調なスタートを切るも、5月2日から8連敗。さらに同29日から6月11日にかけて悪夢の11連敗を喫すると、やっと1個勝ってまた7連敗と不振を極め、シーズンも中盤を前にして優勝どころか最下位に沈んでしまったのである。

 こういう時は球団の動きも早く、7連敗の翌日、移動日だった6月25日に杉下の休養を発表。ファームのチーフコーチ・本多逸郎を代理監督として翌日のゲームから指揮をとらせることになった。就任初年度、開幕からわずか59試合目でのスピード解任は、未だに破られていない球団史上最短の不名誉な記録である

 

矢折れ刀尽き、水原招聘へ

 

 西沢、杉下という球団初期を支えた投打のスター監督が相次いで倒れ、もはや中日には切れるカードが残っていなかった。結局この年も巨人が7月に首位に立ってV4へと邁進する中で、この年から球団社長に就任した小山武夫が「ある腹案」を実行に移すべく動いたのは、既にドラゴンズのBクラスが決定的となった夏場のことだった。水原茂の招聘計画である。

 

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 実は「中日・水原」が企てられたのは、これが初めてではない。西沢の辞任が報じられた際の中日スポーツ(68年1月18日1面)には、杉下最有力を伝える大見出しの横に、「水原氏も有力候補」という白抜きの小見出しが添えられている。一体なぜ中日と縁もゆかりもない水原の名が、親会社の発行する新聞に“有力候補”としてあがったのか。その謎は、杉下解任の直後に発刊された「週刊ベースボール」68年7月22日号にて詳しく知るができた。

 同誌によれば、中日が最初に水原を監督に据えようと画策したのはまだ東映の監督をやっていた64年。中日では杉浦監督が途中休養し、西沢が代理監督を務めていた時期にあたる。翌年からの新監督選びが紛糾していたこの時期、中日の元代表・高田一夫(当時、中大常務理事)が中大の理事長を兼務していた東映・大川博オーナーに、水原の譲渡を申し込んだのだという。先述のとおり、チームの将来設計に関する考え方の相違から水原との関係が冷え込んでいた大川は、棚からぼた餅とばかりにこの話には乗り気だったそうだ。

 ところが中日本社に外部招聘を快く思わない“純血主義”の幹部が複数人おり、結局この構想は流れて生え抜きの西沢の昇格に落ち着いたのだという。

 だが、水原の身辺がいよいよ慌ただしくなった67年秋、今度は水原シンパの多いトヨタ自動車から「中日の監督に水原を」の動きがでてきた。当時の愛知トヨタの社長・山口昇は慶大の先輩で、普通部時代には野球部にも所属したこともあるなど水原とは旧知の間柄だった。弱小の東映を優勝させたにもかかわらず大川に疎まれる水原を見かねて、セ・リーグでもうひと花咲かせてやろうと、山口をはじめとした名古屋の財界人が水原招聘に乗り出したのだ。

 ところが、この構想も与良ヱオーナーの「水原の手腕は認めるが中日の監督は生え抜きの者でいく」という鶴の一声で、再び不発に終わった。西沢もまずまずの結果を出しており、人気も上々。敢えて水原に交代する必要性が見当たらないのだから当然だろう。

 こうして西沢は球団史上最長となる連続4年目の執政に臨もうという矢先、病に伏せて突然の辞意を表明。以上の経緯から、内情を知り尽くしている中日スポーツは、一般読者からすればいささか唐突とも取れる「水原氏も有力候補」の見出しを打ち出すに至ったのである。

 今なお続く生え抜き主義の“保守派”と外様歓迎の“改革派”によるせめぎ合いは50年以上も前には既に勃発していた。こうして歴史を振り返ると、この球団の本質は何も変わっていないことがよく分かっておもしろい。

 

財界人の後押しで就任内定

 

 67年に東映を退団した水原は、36年の巨人入団以来、初めてユニフォームを背広に着替えて評論家活動に勤しんでいた。元々が六大学時代からのスターであり、また川上巨人に対して舌鋒鋭く論評できる数少ない巨人OBとして引っぱりダコだった水原は、TBS、スポーツニッポンの2社とスポーツ解説者としては当時の史上最高額で契約。所属した2球団を共に喧嘩別れのような形で退団したことから、三たび戦線に戻るよりもこの悠々自適の生活を続けたいのが水原の本音だったようだ。

 しかし水面下では水原の招聘計画は着々と動きだしていた。小山は名古屋市に本社を置く大同製鋼(現・大同特殊鋼)社長の石井健一郎を訪ね、「ぜひ水原を取ってくれ」と懇願したという。石井は高松商出身で、水原の5年先輩にあたる。縁もゆかりもない中日球団が直接頼んでも一蹴されるに違いないので、水原が懇意にしている財界人をパイプにしようという算段だ。

 さっそく石井はそれを水原に伝えると、「知った人も少ないし土地勘もない」とさすがに戸惑ったそうだが、「“条件なら俺に任せろ”と言って承知させた」と石井は後に語っている。また石井だけでなく、幼なじみで野村証券専務取締役の増田健次、先述の愛知トヨタ社長・山口昇といった財界の大物による強力な推進を得て、9月上旬には“次期中日監督・水原茂”が事実上、内定した。あとは波風立たぬようにシーズン閉幕を待ち、晴れて正式な就任を迎えるだけとなった。

 

異例の就任会見

 

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▲水原の就任内定を報じる中日スポーツ
(1968年11月7日1面)

 

 本人の意思というよりは周囲の財界人の強力なバックアップで“担ぎ出され”るようにして監督就任を引き受けた水原は、その就任会見も異例の形式でおこなわれた。

 その前に、水原が中日監督に就任した日付について現在Wikipediaには「1968年11月6日」と記述されているが、これは誤りである。確かに翌日の中日スポーツには「中日監督に水原」の見出しが踊り、一見すれば就任決定を伝える紙面だと勘違いしても不思議ではない。しかし、この段階ではまだ正式に就任要請を受けたに過ぎず、水原も「後日返事をしたい」と明言を避けている。要請受諾は九分九厘、間違いないとはされていたものの、あくまでも正式な就任はこの1週間先、「11月14日」が正しい日付である。

 その11月14日、水原は東京駅の新幹線ホームで中日応援団の激励に苦笑しながら、午後1時発の「ひかり25号」で名古屋に出発。午後3時3分に到着すると、そのまま中日ビル9階の球団事務所に入り、小山球団社長と会談。正式受諾の返事をした。

 短い話し合いを終えると午後3時55分、同ビル5階の“橋の間”に小山、水原、東方利重球団代表、それに愛知トヨタの山口社長、大同製鋼の石井社長が現れ、就任会見を行った。この場で水原は「勝つことに執念を燃やして、来シーズン、チャンスがあれば絶対に逃さない」と決意を表明。他にも「若手育成のためにファームの訓練、しつけを厳しくする」「ユニフォームは今のをやめたい」等、記者の質問に対して小気味よく応答した。

 それにしても両脇に一般企業の重役を従えての就任会見は異例も異例。御両人が就任の実現に尽力したことは間違いないが、そうは言っても婚約会見じゃあるまいし、仲立ち人の同席など聞いたことがない。

 これはあくまで勝手な推測だが、この形式を望んだのは水原というより、むしろ中日サイドだったのではないだろうか。先述したように、球団内部には純血主義者が少なからず存在していた。彼らからしてみれば、外様の、それも新聞戦争真っ只中にあった読売出身者の就任は気分のいいものではないはずだ。単に快く思わないだけならともかく、足を引っ張るような真似をされたのではたまらない。

 そこでこの招聘が球団の独断ではなく、地元財界の推薦であることを知らしめることによって、内部の純血主義者の動きを封じようとした。バックに地元財界の大物が付いているのではクーデターも起こし難かろうというわけだ。

 

阪神に先んじて動いた小山球団社長

 

 いくら財界の後押しがあったといえども、排他的で知られる名古屋にあろうことか読売の血を輸血するとは、オーナー、球団社長も思い切ったことをしたものだ。

 ただ当時、球界の長老的存在だった藤本定義監督の神通力が弱まりつつあり、後任監督に頭を悩ませていた阪神もまた水原招聘を本気で企てていたとされる。現にこの年のある試合が終わったあと、放送を済ませた水原に、待ち構えていた阪神ファンが「水原さん、来年は頼みまっせ」と声をかけるという“事件”が発生していた。こうした噂は中日首脳陣の耳にも入っていただろうから、阪神が本腰を入れて動き出す前に、小山社長が大同製鋼の石井社長に泣きついたのも頷けるのである。

 

 幾多の困難を乗り越えて遂に誕生した「中日・水原茂監督」。しかしそれは、波乱に満ちた3年間の始まりに過ぎなかった--。

《後編「波乱」につづく》

 

*1:在郷軍人などが召集に応じて軍務につくこと

*2:1955-59年は水原円裕の登録名

*3:1937,38年は春秋2シーズン制

*4:杉浦清は1946-1948年に1度めの監督歴任

*5:坪内道典は1949-1954年に監督歴任

*6:小川17勝、水谷寿伸15勝、板東12勝、山中巽12勝