ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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あれから35年「田尾安志トレード」を読み解く

 いよいよ球春間近、この時期になると自然に体が疼いてしまうのは私だけではないだろう。我らがドラゴンズはというと、話題はもっぱらドラ1新人・石川昂弥が独占としていると言っても過言ではない。背番号「2」を付ける石川は、「目標は三冠王」と、その体格と同じくらい大きな夢を語る。おそらく今、前途有望な石川の視線の先には壮大な希望が広がっていることだろう。プロの階段を登り始めたばかりの若者は、やがてチームが誇るスターに成長してくれるに違いない。

 今からちょうど35年前も、ドラゴンズの背番号「2」はチームを代表するスター選手が付けていた。だが35年前の1月24日限りでその選手は突然、ドラゴンズのユニフォームを脱ぐことになる。田尾安志、衝撃のトレードから今日で丸35年。当時を生きたファンなら生涯忘れようにも忘れられない日であろう。

 今日は「ちうにちを考える」特別編として、当時の資料を再検証し、あらためて私なりに噛み砕いた“まとめ”のようなものを書き下ろしたので、ぜひ最後までお付き合い頂きたい。

 

田尾安志トレードを読み解く

 

 1985年1月23日、その日マスコミ各社は2つのビッグニュースの対応に追われていた。1つは社会部ネタ。81年から82年にかけて米国ロサンゼルスで起こった邦人女性の殺人事件に関して保険金殺人の嫌疑をかけられていた被害者の夫・三浦和義がこの日、騒動後初めて日本に帰国。いわゆる「ロス疑惑」の主人公のお目見えに、成田空港には300人を超える報道陣が押し寄せた。

 一方で、世田谷は東宝・砧スタジオに芸能部の記者が集結したのは、前日郷ひろみとの電撃破局が報じられたトップアイドル・松田聖子が単独破局会見を開くことになったからだ。「生まれ変わったら一緒になろうね、って話し合って別れました……」と号泣しながら語る聖子ちゃんの姿は、その後も芸能史に残る名シーンとして幾度となくテレビで放送されたので、当時のいきさつを知らなくてもこの場面だけは見たことがあるという方も少なくないだろう。

 明けて24日は、あらゆるワイドショーがこの2大ニュースを大々的に報道した。当日の番組表をみても、「おはよう! ナイスデイ」(東海)、「3時にあいましょう」(CBC)、「ルックルックこんにちは」(中京)、「江森陽弘モーニングショー」(名古屋)と民放各局のワイドショーのラテ欄は三浦、聖子、三浦、聖子でみごとに埋まっている。まるでそれ以外のニュースなど無かったかのように、三浦和義と松田聖子はこの日の話題を独り占め、ならぬ“ふたり占め”してしまったのである(ただし中日スポーツ一面は「杉下茂 殿堂入り」)

 

第一報はスポニチの単独スクープ

 

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▲西武へのトレードをスクープしたスポニチ紙面
(1985年1月24日一面)

 

 だが他社の報道関係者が成田空港と砧スタジオに出払うなかで、スポーツニッポン(以下スポニチ)だけがある特ダネの入手に成功していた。24日のスポニチ一面は、ロス疑惑でも、松田聖子でもなく、「キャンプ直前の大型トレード 内定 西武・田尾」。交換相手は杉本正、大石友好の両名だという。記事の中身も菜食主義の田尾を西武・広岡達朗監督が気に入ったとか、後楽園に強い杉本は巨人戦対策に使えるとか、やけに信憑性が高く、もし本当なら球界を揺るがす大トレード成立だが、当時は「いつもの観測報道」だと一笑に付し、誰もこれを真に受けなかった。

 というのは、つい4日前の20日、田尾は越年していた契約更改を希望どおりに300万円アップの4800万円でサインしたばかりだったのだ。中日では6000万円の谷沢健一に次ぐナンバー2の高給取りとなり、名実共にチームの顔として5年連続打率3割、4年連続リーグ最多安打、そして3年ぶりの優勝を果たすべく、キャンプインに向けて張り切っていた矢先の移籍報道である。

 確かに、気の強い田尾は毎年のように契約更改で揉めるなど球団との確執が取り沙汰されたことは今までにもあった。それを理由にトレードの噂が出たこともあるにはあるが、そうは言っても人気、実力の両面でチームを牽引する看板スターをまさか本当に放出するとは、にわかに信じられないのも当然であろう。そしてそれは他の誰でもない、この日の朝、知人からの電話で報道を知ったという田尾自身も同じであった。

 

急転直下 田尾安志、激動の一日

 

 まだ就寝中の7時25分、田尾の激動の一日は、知人からの「テレビで見たが……」との電話で起こされるところから始まった。文字どおり寝耳に水のトレード話。田尾は笑って受け流すと、9時にはマイカーで合同自主トレが行われるナゴヤ球場へと出発した。10時、ナゴヤ球場前の喫茶店で報道陣と談笑。そこに先輩の谷沢が現れると、自身が一面に載るスポニチを見せながら「西武に行くことになりました。よろしくと」と冗談で挨拶した。谷沢も記者たちも大笑い。この時点では、誰もが誤報だと信じていたのだ。

 10時30分からの合同自主トレが始まる直前、一塁ベンチでは鈴木恕夫(ひろお)球団代表が炭火にあたっていた。田尾が冗談っぽく「練習させてもらってもいいですかね」と聞くと、「どうぞどうぞ」と笑顔で対応。また記者たちからドッと笑いが起こった。練習開始から約2時間が経過した12時40分、練習中の田尾に球団関係者が耳打ちをする。「(鈴木)代表が呼んでますよ」。田尾は、「新聞に出ていることは違うと言ってもらえると思って」監督室に入った。

 13時10分。部屋から出てきた田尾の表情は沈痛そのものだった。取り囲んだ記者たちも、ベンチにいたチームメイトも、すぐに事情を察した。つい数時間前まで笑い飛ばしていた冗談が現実になってしまったのだ。「これがプロなんだなあ。最後まで中日のユニフォームを着ていたかったが、こうなったら仕方ない」と前を向きながらも、「感傷的になっていかんなあ」と涙をこらえながらの囲み取材となった。

 14時30分、球場選手食堂で鈴木代表と山内一弘監督の記者会見が始まる。「西武は芯になる外野手が欲しいと言い、中日も計算できるバッテリーが欲しかった」(鈴木代表)、「田尾放出は痛いがチーム事情で成立した。お互い良い補強ができたというトレードにしたい」(山内監督)とそれぞれ語ったが、「言うことはこれくらいだ」と5分ほどで会見を打ち切った山内監督の対応を見れば、このトレードが現場の本意でなかったことは明らかだ

 15時、今度は同じ場所で田尾による記者会見が行われた。「理由?わかりません。今年は10年目、ケジメをつける年だと決意していたのに残念です」という田尾の言葉からは、無念が滲み出ていた。衝撃の一報が流れると、球団には“トレード反対”の電話が殺到したという。翌日には中日新聞の不買運動にまで発展するのだが、決まったことは仕方がない。

 15時20分には身の回りの荷物をスーツケースとバッグに詰め、裏方への挨拶を済ませると、田尾は慣れ親しんだナゴヤ球場をあとにした。10人ほどのちびっ子ファンが色紙を差し出してきたが、いつもなら優しく応じる田尾が求めを振り切り、車に乗り込んだ。もう「中日ドラゴンズ 田尾安志」とは書きたくても書けないのだ。こうして田尾の激動の一日は終わった。

 そして田尾はこの日から二度とドラゴンズのユニフォームに袖を通さぬまま今日に至る。

 

中スポは球団擁護の構えで「理由」を列記

 

 それにしても、なぜ押しも押されもせぬ看板スターの田尾が放出されなければいけなかったのか。当時の田尾といえばアイドルの三田寛子とCMで共演するなど全国に顔の知れた人気選手。爽やかで健康的なマスクは女性からの支持率も高く、また打席でバットをグルグルと回す仕草を当時の子供達はこぞって真似をしたという。打っては3年連続リーグ最多安打、4年連続3割をはじめ、当時はなかったOPSでも4年連続で8割超え。さらには2年連続で全試合出場と、当時の田尾は長い球団史でも稀にみるほどの文句なしのスーパースターだったのだ。

 

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イラスト提供・子に語り継ぐドラゴンズ愛さん(@kataDORA2019

 

 だからこそ解せない。百歩譲って落合博満レベルの超大物とのトレードならともかく、失礼ながら杉本、大石では2人まとめても田尾の実績とは比べものにさえならない。トレード発表の翌朝、中スポは紙面で球団を擁護するかのようにトレードに至った「理由」を幾つか列記した

 正捕手の中尾孝義は故障がちで不在も多く、前年の出場も76試合どまり。しかしまともな控え捕手は晩年にさしかかっていた金山仙吉だけで、前年のドラフトではこの年の目玉である明大の広澤克実には目もくれず、花園高の中村武志捕手を単独1位指名したのも捕手不足を象徴していた。そこへきて大石は伊東勤の台頭で出場機会を大幅に減らしていたものの、82年には正捕手として101試合でマスクを被り西武を初優勝に導いた実力者。喉から手が出るほど欲しい即戦力の捕手だった。

 では杉本はどうか。前年のドラゴンズはチーム打率.282、30ホーマー打者が4人というリーグ最強の強竜打線が猛威を振るったが、それでも盤石な投手陣を擁するカープの牙城は崩せず、根本的な戦略の再考が求められてた。いわば首脳陣が“打”から“投”中心のチーム編成へと切り替えるのは自然の成り行きだったが、当時の投手陣は整備をしようにも駒不足が顕著で、特にサウスポーとなるとまともに働けるのは都裕次郎だけという有様だった。杉本は西武入団以来、4年間で33勝をあげ、そのうち10個を完封で飾ったタフネス左腕だ。ドラゴンズ首脳陣の心が傾くのも無理はない。

 こうして見ると、確かにどちらも理にかなった補強ではある。ただ、その交換相手がどうして田尾でなければいけなかったのか。このトレード最大の謎を、順を追って紐解いてみたい。

 

“寝業師”根本陸夫が仕掛けた大トレード

 

 当初、西武サイドが要求していたのは田尾ではなく、同じ外野手で83年ホームラン王の大島康徳だった。当時の西武は82,83年と連覇を達成したものの、V3を狙った84年は前年38ホーマーのテリーがメジャーへ去り、開幕4番の田淵幸一も不振にあえぐなど足並みが揃わず3位に転落。そこで大砲不在の穴を埋めるべく“球界の寝業師”の異名をとる根本陸夫管理部長がシーズン中に食指を伸ばしたのが大島だった。

 思い立ったが吉日。根本はさすがの速攻を仕掛け、左のワンポイントで活躍する永射保と大石を交換要員として打診するも、優勝争いを繰り広げていた中日からの返答は「応じず」。諦めきれない西武はシーズン終了後、再度交渉を申し入れたが、「杉本、森繁和」を希望する中日と相容れず、一旦は立ち消えになっていた。ところが西武が杉本を交換要員として他球団とのトレードを模索しているとの情報を得ると、今度は中日サイドから話を持ちかけた。そのとき中日が差し出したのが田尾だったという(どちらが田尾の名を先に出したのかは諸説あり)。

 西武サイドからしてみれば、ちょうど田淵、山崎裕之の両ベテランが引退し、また左打者も不足していたところで脂の乗り切っている田尾を獲得できれば渡りに船。トレード決定を聞いた広岡監督は「ほほう、決まりましたか」と相好を崩すと、「数少ない顔で物が言える打者だよ。右翼で1番」と早くも無条件のレギュラー確約を宣言した。

 田尾の名は決して突拍子もなく挙がったわけではなかった。近藤貞雄政権(81〜83年)で中日のヘッドコーチを務めた西武・黒江透修総合コーチが田尾の打撃スタイルを評価しており、それを伝え聞いた広岡監督が田尾獲得をフロントに要望したとの説もある。また、当時選手会の会計監査役に就いていた田尾は巨人・中畑清と並んで選手会の活発な活動家として知られており、委員会では理路整然と待遇改善を要求し、お偉方をタジタジにさせたこともあるという。その田尾を西武に移籍させれば選手会の活動を封じ込めることができる--、トレード決定後にはこんな機構側の“策謀”がまことしやかに囁かれることもあった。

 その証拠に、というわけではないが、トレード発表直前の1月9日、東京グランドホテルで行われた委員会の席上で選手会は機構側の福祉委員会を相手に待遇改善について激しくやり合ったばかりだった。福祉委員会の座長は西武・坂井保之代表で、もちろん中日・鈴木代表も同席。この場で密約が交わされたのではと勘ぐるのはあながち見当外れでもないだろう。

 いずれにせよ、両球団の思惑の狭間では、9年間に渡り田尾に声援を送ってきた大勢の中日ファンの想いなど、まるで無きものとして扱われたのは間違いない。政治に翻弄されるのは、いつの時代も市井の人々なのである。

 

トレードの真相は球団代表との確執か

 

 中日が田尾を差し出したのは、表向きには外野手の飽和が理由だとされている。高卒ドラ1の藤王康晴はルーキーイヤーの84年、ほとんど代打出場とはいえ36打数13安打で打率.361、2ホーマーの好成績を収めた。しかし本職の三塁には屈指の好漢・モッカがいるため、出場機会を増やすために外野コンバートが検討されている最中だった。外野のポジションはスイッチヒッターの平野謙に加え、彦野利勝、川又米利と若手の台頭もめざましく、31歳になる田尾が世代交代の生け贄になったというわけだ。しかし、それでは同じ外野手で34歳の大島を残した説明がつかない。やはり田尾はフロントとのグラウンド外での確執により放出されたと見るのが自然だろう

 田尾と鈴木代表の対立は球界関係者の間では知れた話だった。そもそもの始まりは、田尾が4年目にして初めてのスランプに陥った79年シーズン中にまでさかのぼる。この年、代表職に就いたばかりの鈴木が試合開始直前にベンチに現れて何を言うのかと思えば、不振の田尾に対して「このままだと給料を下げるぞ」などと脅したというのだ。田尾も負けん気が強いので「試合前に何を言ってるんですか! 」と一喝したそうだが、この些細な出来事がフロント不信の始まりだったと、後に田尾は述懐している。

 やがてチームの中心打者に成長した田尾は83年に選手会長に就任。“物言う選手会長”として選手専用駐車場の設営や選手の士気を向上させるためのボーナス支給など、環境・待遇の改善を敢然と訴えた。田尾の血気盛んさは、現代の感覚からすればいささかラディカルに映るほどである。

 例えば「週刊ベースボール」84年12月10日号での元阪神の小林繁との対談では、優勝争いを繰り広げた今季のドラゴンズの戦いぶりについて「全然盛り上がらなかったですね」とバッサリと斬り捨てると、「フロントが盛り上がってなかったようです」「首位争いしているときに秋季練習の日程を発表したでしょ。選手、みんなシラけちゃったね」「ものすごくシラけましたよ。だけどやっぱり、まだチャンスある。ということで、選手だけは『ガンバロウ』といってました」等々、言いたい放題。さらに矛先は自軍の監督にも向けられる。「山内さんも、それほど必死にやってなかったのかもしれませんね、今シーズンは」「優勝しなくてもいい、くらいの気持ちを、ボクらは強く受けましたよ」である。

 もし今、同じことを言う選手がいれば大炎上は避けられないだろうが、昭和のプロ野球界は案外監督やフロントに対してズケズケとものを言う選手が多くいたものだ。それでチームを去ることになった代表例が69年の中日・江藤慎一だが、その話はまた別の機会に。間違いなく現代より上下関係が厳しい時代ではあったが、その分媚びへつらうような“忖度”は横行していなかったのかもしれない。

 

「言うことは言って、やることはやる」

 

 こうした様々な事情が絡み合った末に、35年前の今日、田尾は西武へのトレードを通告された。CMにも出演した住友林業の建設で日進町(現在の日進市)に邸宅を構えてまだ1年余りでの移籍は、田尾の家族にとっても辛いものだったはずだ。現在はMADAM REYの名でメタル歌手として活動する宏子夫人も、「なんであなたが! 」と涙をこぼしたという(※MADAM REYさんご本人からこの箇所について「主人がトレードになった時『栄転おめでとう』と言いました」とのご指摘を賜りました)

 だが田尾が男をあげたのは、ドラゴンズを去る寂しさこそ語れど、球団への恨み節などは決して口にせずあくまで前向きな姿勢で新天地に飛び込んだからである。大きな荷物を抱えてナゴヤ球場を去る最後の“中日・田尾”を捉えた写真には、トレードマークの笑顔を浮かべる姿が写っている。田尾の人となりを象徴する1枚といえよう。

 移籍直後、雑誌のインタビューで「ズバズバ言って、また西武でにらまれたら困るのでは」との質問に対し、田尾は「これからも有言実行で。言うことは言って、やることはやる。それが間違っていなければいい。ボクは野球が大好きだし、引退後なんて考えたくもない。少しでも野球のやりやすい環境で、一年でも多く野球をやりたいんです」と答えている。その言葉どおり、3球団目の阪神で91年に引退するまで16年間の選手生活を全うし、05年には楽天の初代監督に就任。そして今、田尾は琉球ブルーオーシャンズのGMとして大好きな野球に携わり続けている。まさに有言実行の野球人生である。

 

背番号2に想いを馳せる

 

 今年から背番号「2」を付けることになった石川昂弥は01年生まれの18歳。いくら地元出身の中日ファンといえども、35年も前にこの背番号を付けていた選手のトレード話までは知る由もないだろう。それはファンにも言えることで、一定の年齢より下の世代にとってはドラゴンズの「2」といえば荒木雅博、それより以前はもはや歴史の教科書の世界といった感覚なのかもしれない。

 ただ、歴史を学ぶ行為とは現代への理解を深めることに他ならない。何も知らないよりも、過去の出来事を知っていた方が同じ背番号「2」を見るにしてもほんの少し豊かに想いを馳せることができるはずだ。かつて田尾安志という選手がフロントに抗いながらも野球環境の改善に努め、戦った、そんな傷だらけの歴史を持つ番号。石川の背中を見たときに、心の片隅でこの物語を思い出すファンが1人でもいる限り、“ドラゴンズの田尾”は永遠に生き続けるだろう。

 

 

【参考資料】

週刊ベースボール 1984年12月p38〜41

月刊ドラゴンズ 1985年3月 p2〜6

週刊平凡 1985年3月 p16〜17

文芸春秋 1985年7月 p318〜330

週刊ポスト 1985年2月 p38〜41

週刊現代 1985年8月 p58〜62

スポーツニッポン 1985年1月24日 1面

中日スポーツ 1985年1月24日 1面

中日スポーツ 1985年1月25日 1〜3面

中日新聞 1985年1月24日 終面

週刊ベースボールONLINE

【トレード物語09】キャンプ前に西武へトレードされた中日・田尾安志【85年】

スポニチアネックス

日めくりプロ野球【1月24日】1985年(昭60)中日・田尾安志、契約更改から4日後に西武へトレード