ちうにちを考える

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【追悼・高木守道】さらば、ドラゴンズの生き字引

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 ドラゴンズの生き字引がまた一人、この世を去った。昨夜、突然飛び込んできた訃報を目にしても、にわかに実感がわかなかったのは、その存在があまりに身近すぎたからかもしれない。長きに渡って「サンデードラゴンズ」(CBC)や野球中継で解説を務めた守道さん(親しみを込めてこう呼ばせて頂く)はテレビやラジオを通じて、いつでも気軽に会える存在だった。つい先日、12日には「坂東サンデー」(CBCラジオ)に出演して板東英二と共に思い出話に花を咲かせていたばかり。故・星野仙一氏や落合博満氏が重厚で特別な存在なら、守道さんは“昔から近所に住んでいる無口で普通のおじいさん”という表現が似合う、いい意味で威厳を感じさせない存在だった。

 

ドラゴンズに捧げた69年間

 

 だが、その“普通のおじいさん”の死が持つ意味はあまりにも重い。80年以上の球団史のなかでも、守道さんほど深く、長くドラゴンズに関わった人物は他にいないからだ。明らかになっている限りで、守道さんとドラゴンズの最初の“接点”は69年も前のこと。1951年8月19日の巨人戦、ナゴヤ球場の前身である木造の中日球場が試合中に火災に見舞われて焼失したこのとき、10歳になったばかりの守道少年は兄と一緒に現場に居合わせたという。
 「当時10歳でね、生まれて初めての野球観戦だったんだよ。確か一塁側スタンドの中段にいたんだ。『火事だ』『火事だ』と大騒ぎになり、人波に押されてグラウンドに飛び降り、バックスクリーン横の通路から必死に逃げたよ」(2019.3.6 中日スポーツ「ドラゴンズと火災のトラウマ」)。

 ドラゴンズの一員になったのは、それから9年後のこと。選抜大会準優勝の実績を引っさげて名門・県岐阜商から入団すると、最初の春季キャンプでその二塁守備ぶりを見た杉下茂監督が「高校生でこんな、素晴らしい内野手がいたのか……」と舌を巻いたというのは有名な話だ*1。そこから21年間、ドラゴンズ一筋を貫いて現役生活を全う。選手として1974年、コーチとして1982年の優勝に貢献。1986年には山内監督の途中休養を受けてシーズン終了まで代理監督を務めた。これらの功績から“ミスタードラゴンズ”の称号を襲名。押しも押されもせぬ球団の宝になった。

 

二大カリスマのあとを受けた悲運の敗将

 

 ただ、私を含む現役時代を見ていない世代からすると、どうしても守道さんに付きまとうのは“悲運の敗将”のイメージである。二度務めた監督業は、いずれも星野、落合というカリスマのあとを受けてのもの。火中の栗を拾う形で監督を請け負った高木は、ファンからの容赦ない批判に晒された。“暴走老人”と自称し、“瞬間湯沸かし器”とも呼ばれた短気な性格は時にチーム内の不和を招き、ベンチ内のカメラに映る場所で喧嘩の模様が放送されてしまったこともある。

 ここ一番での勝負弱さも致命的だった。1994年のいわゆる「10.8決戦」では槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄の三本柱を惜しげもなく投入した長嶋監督に対し、山本昌を温存して山田喜久夫を登板させる“普段着野球”に徹した高木の采配は非難の的になった。2012年のCSファイナルステージでは王手をかけてから3連敗を喫して敗退。二度とも日本シリーズまであと1勝としながら巨人相手に屈し、翌年は燃え尽きたかのように敗戦を重ねるというパターンで解任された。監督・高木守道の悲運たる所以である。

 敢えてオブラートに包まず言えば、守道さんは監督業に向いていなかったのだ。これは私などが評価するまでもなく、本人が認めていることでもある。そもそも1991年の秋、星野監督が辞任の意向を示した際、球団幹部からの監督就任要請に対して守道さんはあまりにも正直な理由で一旦はためらっている。当時の紙面から再録しよう。

 

 ー次期監督について加藤オーナー、中山社長から正式要請があったようですが

 「きょうオーナーから、お話がありました。その席で、その任にあらずと、ご辞退申し上げました。というのは、ネット裏で見ていて、監督業というのが、いかに大変なものであるかよく分かっているからです」

 ー星野監督は高木さんを希望され、ぜひ後任をお願いしたいと思っているようですが

 「星野監督を見ていてあのすごいエネルギー、情熱は、とても私にはまねできません。それと、私は人気という点でも、あまりないと思っています。だから、最初は自信がないとお答えしたんです」

 ーオーナーの高木さんへの要請はどんなことでしたか

 「チームを作り直せる育成型の監督になってほしいということでした。OBで、星野監督のあとを受けてやってくれるのは、君しかいないと言われました。そこまでオーナーに評価していただき、身にあまる光栄です。ですから、しばらく考えさせて下さいとお答えしました」

中日スポーツ1991.9.26一面より抜粋

 

 就任要請を断る理由は数あれど、ここまで客観的に自身の不適格を説明した人物は他にはいないだろう。結局、周囲の声に押されて就任に至るわけだが、ちょうど20年後、落合監督の後釜を託された際にも同じようなニュアンスで戸惑いを口にしている。このとき就任の抱負を「強い時代のあとのコーヒーブレイク」と表現したことには違和感を抱かざるを得なかった。良くも悪くも守道さんの謙虚さが、監督としての物足りなさを感じさせたのは確かである。

 ただ、裏を返せばそれだけ誠実な人物だったともいえよう。2004年に落合監督のもとで新生ドラゴンズがリーグ優勝したときのこと。OBのなかには素直に賞賛しない人間もいたが、一度は監督候補にもあがった守道さんが「もし私が監督になっていたら、こんなに強いチームは作れなかった」と率直に落合の手腕を褒め称えたのを聞いて感心したものだ。我の強い性格の人物が多い野球界にあって、守道さんの謙虚さは異質だった。

 

9人もの監督に仕えた語り部の喪失

 

 二度目の監督業を退いてからはレギュラー解説も外れ、近年になって「坂東サンデー」の準レギュラーになるまで、しばらく表立って姿を見せない時期が続いた。それだけに重圧から解放されたように、楽しそうに昔話をする守道さんの様子が毎週のように聴けるのは貴重だったのだが、もうあの穏やかなお声が二度と聴けないと思うと残念だ。そしてあらためて感じるのが、杉下、濃人渉、杉浦清、西沢道夫、水原茂、与那嶺要、中利夫、近藤貞雄、山内一弘という9人もの監督の下で選手、コーチとして仕えた歴史の語り部を喪失したことへの空虚さである。

 これからは天国で再会するであろうかつての戦友たちと語らいながら、ドラゴンズの勝利に対して「普通です」と平然と言い放つ、そんな穏やかな日々を過ごすことになるのだろう。

 高木守道、ドラゴンズに捧げたその人生に最大限の敬意と、心からの哀悼の意を表したい。

*1:「中日ドラゴンズ40年史」(中日新聞社/絶版)