ちうにちを考える

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【三回忌・星野仙一】1989年ドラフト会議 与田剛指名

 中日で二期11年間に渡って監督を務めた星野仙一さんが2018年1月4日に膵臓癌で亡くなってから丸2年を迎えた。闘将星野は名監督であると同時に稀代の“人たらし”でもあった。亡くなる約1ヶ月前に都内と大阪の2会場で開催された「星野仙一氏野球殿堂入りを祝う会」には共に1000人近くが出席。球界だけに留まらず、スポーツ界、政財界、マスコミ、芸能界に至るまでジャンルを超えて集まった顔ぶれが、あらためて星野の人脈の広さを物語っていた。

 選手の妻の誕生日には欠かさず花束を贈るとか、世話になった人の身の上は忘れず、次に会った時に「お子さんはお元気ですか」などと何気ない一言で相手を感動させるとか、星野の卓越した処世術に関するエピソードをあげれば枚挙に暇がない。よくいえば気配りの人で、悪くいえば卒のない人。いずれにせよ、あふれんばかりの人間味でもって70年の生涯を生き抜いた星野の姿に我々は憧れ、魅了され続けた。

 そんな星野が監督として3球団を渡り歩きながら「育てた」選手たちは、今球界の中枢を担っている。星野死せども星野イズムは果てずーー、現在中日の監督を務める与田剛もまた星野に見出された人材の一人である。

 

在京球団志望の与田を強行指名

 

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 野茂英雄、佐々木主浩、佐々岡真司など長いドラフトの歴史でも史上最高と謳われる1989年のドラフト会議で、与田は中日から単独1位指名を受けた。その瞬間、プレスルームが大きくざわつくほどの意外な指名だったことは今となってはあまり知られていない。

 というのも兼ねてから与田はロッテを除く在京球団志望を公言しており、現に故・パンチョ伊東氏が名調子で名前を読み上げるのを聞いても、与田は笑顔ひとつ作らずにただ唇をかみしめるだけだった。別に都会志向が強かったわけでも巨人に憧れていたわけでもない。「実家は君津(千葉県)にあるし、ずっと関東で暮らしてきました。なにより母のそばにいてやりたいんです」。

 亜大一年のとき、父親が癌で他界。母・敦子さんが女手一つで大学を卒業させ、NTT入りしてからも好きな野球を続けさせてくれた。そんな母親を一人にさせたくないと思うのは長男として自然な感情である。指名直後の会見で与田は「在京球団が来てくれればと思っていたが、それ以外に指名して欲しくないという意味ではない」としたうえで、「今後は監督や会社の人と相談して決めたい。結論を出すには時間がかかると思う」と揺れる思いを口にした。

 中日としては、史上空前の豊作年にドラフト1位に逃げられたのではたまったものではない。「くびをかけて落としてみせるが、難航は必至」という田村、高木両スカウトの言葉からも焦燥感が伝わる。しかし長期戦の様相を呈した交渉は、拍子抜けするほどあっさりと決着がついた。

 

挨拶に来なかった星野

 

 ドラフト直後に監督みずから指名選手の所属企業や学校に挨拶に訪れるのは、この時代から既に慣例になっていた。特に入団するかどうか定かではない場合、「ぜひ来てください」と三顧の礼をもって訪問するのは昔も今も変わらない。中日の関係者が東京都港区のNTT東京支社に与田を訪ねたのはドラフトから一夜明けた11月27日。余談だが横山やすしの息子で俳優の木村一八がタクシー運転手を暴行し、親子で謝罪会見を開いたのと同じ日である。

 だが心揺れる与田に星野監督が熱い言葉はかけることはなかった。そもそも星野は挨拶に来なかったのだ。理由は「プライベートタイムを過ごしているから」。常識的に考えればあり得ない対応だが、これがかえって与田の心に響いた。以下、与田の著書から抜粋。

 星野監督としては、指名をした時点で監督としての仕事は終わっていたのだろう。ぼくには「プライベート中」というのがメッセージに聞こえた。

 「いいか、与田。オレはお前が欲しいんだ。欲しいから指名する。来るか来ないか、プロでやるという夢を叶えるかどうかは、おまえの考え方ひとつだ。好きにせい」

 こういう人の下で野球をやりたい。プロ入りを決断したのは星野監督がいたからだ。

 「消えた豪速球:157キロで駆け抜けた直球人生」(ベストセラーズ)118pより

 

当日まで野茂か元木の二者択一

 

 それにしても運命とは不思議なもので、ドラフト当日まで中日の1位指名は野茂英雄か元木大介の二者択一だと思われていた。それを覆したのが星野のひと声だった。「正直言って最後まで迷った。社会人の主なところはテープが擦り切れるほど見たが、野茂に匹敵する力の投手に落ち着いた」。

 当時の与田は社会人三羽ガラスの一角と高い評価を受けていたものの、野茂の陰に隠れていたのも事実。与田自身も「(1位指名は)正直言ってビックリしました。外れ1位であるかなくらいしか思っていませんでした」と語っている。サプライズ指名の決め手は、「何てったって投手」と星野が強調するほど切羽詰まっていた投手不足のチーム事情にあった。88年に18勝を挙げてリーグ制覇に貢献した小野和幸はこの年1勝に終わり、20勝を挙げた西本聖も年齢的に長くは期待できない。若手の山本昌も安定感に欠くという中で、競合確実の野茂を指名する余裕など当時の中日には無かったのだ。

 普段は強気な星野がめずらしく逃げ腰の選択をしたことで、与田は中日の一員となり、30年後に監督にまでなった。いつだって運命は予測不能なものである。

 

ドラゴンズに流れる星野の遺伝子

 

 亡くなって2年が過ぎても、未だに星野がこの世にいない現実に違和感がある。それだけ野球界にとって、とりわけ中日にとって星野は大きな存在だった。落合博満が中日の監督に就任したのも、元を辿れば86年オフに星野が仕掛けた世紀のトレードが起点だ。現政権をみても与田だけではなく、中村武志や仁村徹、門倉健など確実に星野の遺伝子は流れている。阪神の監督に就任した経緯などから星野に対して複雑な感情を抱いてた時期もあったが、あらためて足跡をたどるにつれてこの巨星の凄みに唯々打ちのめされ、いつのまにかアンチ感情も尊敬の念に変わっていたほどだ。

 かつて自らの意思で指名した与田が率いるドラゴンズの戦いっぷりを見て、星野なら何と言うだろうか。おそらく甘い言葉など一切なく、「何をタラタラやっとるんじゃああ‼︎ 」と喝を入れることだろう。そんな姿が、もう空想でしか見られないのが無念である。

 

参考資料・中日スポーツ 1989年11月27日、28日付

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