ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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郡司44番で思い出す1984年、金山仙吉の一打

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 16日、名古屋市内でおこなわれた入団発表で新人7選手が背番号の付いた真新しいユニフォームを着て登壇。ドラフト1位の石川昂弥には荒木雅博コーチが2018年まで23年間にわたって付けた「2」が、ドラフト2位の橋本侑樹には岩瀬仁紀氏が20年間背負った「13」が与えられた。

 また興味深いのがドラフト4位の郡司裕也だ。「谷繁さんのように長年ドラゴンズを支えることができるキャッチャーになりたい。長年支えてミスタードラゴンズと言われる選手になりたい」(中日スポーツ紙面より)と大きな目標を語った郡司は、「44」を背負うことになった。
 44番といえば日本では縁起の悪い数字と言われ、中日でも2000年以降、この番号を背負ったのは小池正晃(2009〜2011年)を除いていずれも外国人だ。この番号をルーキー捕手に与えたのは少々意外ではあったが、昨日の契約更改で1億円の大台を突破した阪神の背番号44・梅野隆太郎がリーグ屈指の捕手に育ったことを思えば吉兆ともいえよう。

 ただ、かつて44番は中日では日本人が、それも控え捕手が付けることの多い番号でもあった。90年代最後の44番は巨人から移籍してきた吉原孝介、その前がやはり移籍組の捕手・光山英和である。1997年までは12年間にわたり外野手の神山一義が背負ったが、オールドファンにとって印象的なのはむしろその前、1976年から10年間「44」の主としてチームを支えた金山仙吉ではないだろうか。木俣達彦の控えとして、また中尾孝義の控えとして、毎年50試合にも満たない出場数ながら、中日の一時代を渋く支えた働きっぷりはまさしく縁の下の力持ち。

 その金山のハイライトは1984年6月29日の大洋戦(横浜スタジアム)。生涯通算19本しか打たなかった貴重なホームランで、球団史に輝く大記録に華を添えた。

 

有言実行!「わしが打ってくるわ」

 

 試合にまつわる様々な記録の中で、意外とレア度が高いのが毎回得点というやつだ。何せ83年のプロ野球の歴史の中で、これが達成されたのはわずか6度。直近では1997年5月7日の西武-ダイエー以来、ご無沙汰になっている。これをやってのけたが1984年6月29日の中日だった。球団史上、もちろんこれが最初で最後。プレッシャーのかかるラストイニング9回の得点を決めたのが、この金山仙吉だった。

 序盤はノーガードの打ち合い。先発の都裕次郎、後を託された藤沢公也がピリッとせず、2人で2回2/3を7失点の大乱調。中日打線も負けじと食らいつくが、4回終わって5対7とこの時点ではリードを許していた。しかし5回、中尾のこの日2本目となる2ランで遂に追いつくと、6回には大島康徳の2点タイムリー(これが決勝点となり、大島は日本記録の月間7本目のV打を達成)、宇野勝が3ラン、さらに中尾が3打席連発11号ソロで続き、大洋の戦意を完全に喪失させた。

 7,8回にも得点を重ね、いよいよイニングは9回。14点差のついた局面で、もはや興味は“大記録達成なるか”だけに絞られた。先頭は8回からマスクを被る途中出場の8番金山。なんとか1番の田尾安志に回したいところで、それまで無言の山内一弘監督がベンチで声を出した。「わしは毎回得点を見たことがない。スクイズでも何でもええ。1点取ってこい」。

 大将の懇願とあらば、応えるのが男というもの。いぶし銀・金山が飄々と「じゃ、わしがホームランを打ってくるわ」と言い残し打席に向かうと、ほんの1分後、金山は有言実行を果たしてベンチに戻ってきた。試合後の山内監督の談話。

 「5回に上川(誠二)と中尾の活躍で追いついたのが大きかった。あとはもう勢いっちゅうやつや。そして金山の一発。『打ってくる』っていうとホント打ちよった、アイツ。初めて毎回得点の試合を見させてもらったよ」

 

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▲ここから35年で2度しか無いのだから、やはり快挙である

 

 25安打8発22点。当時、中スポで評論家を務めていた荒川博氏をして「史上最強打線」と銘打った破壊力満点の強竜打線だったが、この年惜しくも古葉カープに3.0差離されて2位に終わると、翌年からは2年連続で5位と振るわず1986年7月5日にはシーズン途中で山内監督を解任。そして時代は青年監督・星野仙一を迎え、この試合に出場した選手の大半を放出した新体制でもって1988年にリーグ制覇を成し遂げるのである。

 星野就任以降が近現代史とするならば、山内政権までは前近代史と言ったところか。星野ドラゴンズの印象が鮮烈すぎるあまり、この時期は後年、語られる機会が少ないようにも感じる。1982年の野武士野球での優勝と、1988年の星野V1の間に挟まれた地味な時代かもしれないが、こんなに面白い野球をやっていたのだからスルーするのは勿体ない。この日の毎回得点は、あらためて語り継ぐべき大いなる歴史の1ページである。

 

でも郡司は控えじゃなくて正捕手になれるといいね

44番の新たな歴史が今、始まろうとしている!

【参考文献】

中日スポーツ 1984年6月30日付