ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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大西崇之、やりすぎ元気伝説

 東海ラジオの解説陣に森野将彦、そして大西崇之が加わった。今季まで解説を務めた仁村徹(二軍監督)、井上一樹(阪神打撃コーチ)に代わって、来季から専属解説者に就任することが決まっている。

 森野はともかく大西は2005年オフの巨人移籍以来、一貫して巨人に尽力。一塁ベースコーチとして大きな目を見開きながら走者に声をかけていた姿は記憶に新しい。若いファンなどは大西が中日に在籍していたこと自体が意外に思えるかもしれないが、元々は中日の生え抜き。球団史に残る失敗ともいわれる1994年ドラフトの最下位(6位)で入団すると、4年目の1998年から出場機会を増やし、2003年には104安打、9本塁打を放つなど意外性のあるバイプレイヤーとして活躍した。

 だが大西が成績以上にファンの人気を集め、また首脳陣から信頼を得たのはガッツ溢れるプレースタイルによるところが大きかった。中日時代の大西というと、感情剥き出しで攻守に躍動する姿が思い浮かぶ。ちょうど同時期に同じように荒々しさを売りにしていた同じ外野手の関川浩一との「左右」コンビは絶妙で、相手投手の利き腕によってどちらがスタメンに出てきても同じくらいの大きな声援がスタンドから起こっていたのが懐かしい。

 

大事マンブラザーズの出囃子は盛り上がったよね

チャンスであの歌が流れると「いける!」と思えたもんだ

 

やりすぎ元気伝説!球審の肋骨を折る

 

 大西が最初にチャンスを掴んだのは守備での活躍だった。当時、移転したばかりのナゴヤドームで僅差を守りきる野球をするべく星野監督は大西を主に終盤の守備固めで起用。俊足を生かした広い守備範囲はドーム野球に適合し、出番を増やした。

 1998年7月4日の巨人戦ではやはり守備固めで途中出場すると、2点リードの9回表に先頭・高橋由伸の大飛球をフェンス際でジャンピングキャッチ。川上憲伸の記念すべきプロ初完封勝利をアシストする大ファインプレーでその存在感を強烈に印象づけると、1ヶ月後の8月21日には全盛期の“大魔神”佐々木主浩から9回表に同点ホームランを放つ快挙で“意外性の男”として知名度も上昇。翌年からはスタメン出場の機会も徐々に増え、いつしかベンチになくてはならない元気印になっていた。

 

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 だが、時には持ち前の元気さが行き過ぎてしまうこともあった。2000年5月6日の横浜戦で、今もなお語り継がれる事件は起こった。

 7回裏、2点差を追いついてなおも二死二塁、打者立浪和義に対してカウント1-2から木塚敦志が投じた4球目は内角低めに構えた谷繁元信のキャッチャーミットに吸い込まれた。立浪は自信を持って見逃したが、球審橘高の判定はストライク。クールな立浪が橘高の胸を小突き、一発退場が宣告される。すると次の瞬間、ベンチから猛然と駆けつけた星野監督がそのまま橘高に左肩から体当たりを食らわすと、あとは興奮した選手、止めに入ろうとする選手と審判団がベース付近で揉み合う事態に。その混乱の中で、さらなる暴行を橘高に加えたとして退場宣告を受けた「3人目」こそが大西その人だった

 当事者の立浪は分かる。監督の星野も分かる。だが大西は事件の部外者であるにももかわらず退場を食らうほどの暴行を働いたというのだから驚きだ。大西に胸付近を殴られた橘高は右肋骨骨折と左肩、背中などの軽傷と診断され、直接の負傷の原因になったとして大西には最も重い10日間の出場停止が科された(星野、立浪は5日間)。

 

15年ぶりの名古屋復帰!

 

 落合政権下では英智の台頭などもあり出番が激減。2005年オフに金銭トレードで巨人に移籍し、引退後はスカウト、二軍コーチ、一軍コーチを歴任。今年は球団職員としてジャイアンツアカデミーのコーチを務めたそうだ。

 いわば完全なる巨人の人間が、このタイミングで名古屋に復帰するとは誰が予想できただろうか。もちろんかつての仲間の復帰は大歓迎だ。記録よりも記憶に残る男がバットからマイクに持ち替えてどんな名調子を聞かせてくれるのか、今から来季の「ガッツナイター」が楽しみだ。