ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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野口茂樹、優し過ぎた男

 先週もっとも衝撃だった中日関連のニュースは、ゴンザレス、シエラの両助っ人獲得でも与田の極秘帰国でもなく、やはりエース、大野雄大が複数年契約を蹴って単年契約を選択したことだろう。

 これを受けて加藤宏之球団代表「3年間は縛っておきたかった」とまるでスマホの契約プランのような口ぶりで無念を表すと、さらに「(来年オフは)残留してもらおうとなると、厳しい状況になるかもしれない」と早くも1年後の争奪戦に向けて弱気な姿勢をみせ、残留を期待するファンを絶望の淵へと突き落とした。兼ねてから鈴木孝政氏ばりの“軽口”で物議を醸すことの多い加藤代表だが、もう少し表現には気を使うべきだ。

 何かあるたびに加藤代表の軽率な発言がクローズアップされ、球団のお粗末な体質を曝け出していては現場のモチベーション低下にも繋がりかねないだけに、いたずらに不安を煽るような物言いは金輪際控えてもらいたい。

 

人的補償発生の移籍なら野口茂樹以来

 

 仮に大野が来年オフにFA権を行使して移籍することになれば、人的補償が発生する主力選手の国内流出は中日としては2005年オフの野口茂樹まで遡ることになる。とはいえ当時32歳の野口は既に盛りを過ぎ、同年も13先発3勝6敗と、落合監督のもと黄金期を築きつつあったチームの中で結果を残せずに苦しんでいた。そのためキャリアアップのための移籍というよりは、環境を変えて再起を図るための移籍という意味合いが強かった。

 実際、野口の人的補償で小田幸平を獲得した落合は「大儲けと言ってもいい」とほくそ笑み、小田は2014年の引退まで9年間にわたって控え捕手として活躍、3度の優勝にも貢献した。一方の野口は移籍初年度を1登板のみで終わると、2年目にはリリーフに転向して31試合登板。3年目は登板機会に恵まれず、この年のオフに戦力外通告を受けてプロ球界を去った。

 1999年に19勝をあげてMVPを獲得、2001年には日本タイの4試合連続無四球完投勝利を記録、最優秀防御率(2回)、最多奪三振のタイトルも獲得するなど一時代を築いた名サウスポーにもかかわらず、同じ時代を生きた川上憲伸や山本昌に比べるといまいち知名度も低く、語られる機会も少ないように感じる。おそらくは派手を好まない朴訥な人柄が要因だとは思うが、チームが隆盛を極めた落合政権時に活躍できなかったことも一因だろう。

 だが忘れてはいけない。伝説として語り継がれる2004年4月2日、落合中日の初陣となったこの開幕戦のオープニング投手は当初、野口が最有力と言われていたことをーー。

 

 

中スポ、開幕投手は“野口”の誤報

 

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▲当時の中スポはまだ落合の言葉を鵜呑みにしていたのだ

 

 開幕を6日後に控えた3月28日。横浜スタジアムでおこなわれたオープン戦、横浜戦の試合後、探りを入れる報道陣を遮るように“落合節”が炸裂した。「何が聞きたい。早く言え。開幕投手が聞きたいのか。このままだ。このままでいくよ

 この日の先発マウンドに立ったのは野口。4イニングを投げ6安打4失点と結果は振るわなかったが、3年ぶり2度目の大役に向けての試運転と見ればどうってことない。前年チーム最多勝の平井正史はリリーフ転向が決まっており、川上憲伸は翌28日に登板予定のため中4日での大舞台は考えにくい。これらの状況証拠に加え、指揮官自らの思わぬ発表により決着したかに思えた開幕投手争いを、当時の中日スポーツは「落合 言っちゃった」というユーモラスな見出しで報じている。

 だが6日後、マウンドに上がったのが野口でも川上でもなく、誰も予想していなかった川崎憲次郎だったのは今や語り草。つまり落合は平然と嘘をついたわけだが、「敵を欺くにはまず味方から」のことわざ通り、身内ともいえる中スポさえも騙しきったのが落合らしい。もちろん姑息でも卑怯でもなく、ストイックに勝利を追い求めるために必要な策だったのはその後のチーム成績をみれば明らかだ。

 当の野口は中6日で開幕2戦目に登板。6回4失点ながらシーズン初勝利を飾ったが、年間成績は4勝(8敗)に留まり日本シリーズでも登板機会はおとずれなかった。初めて二桁勝利をあげた1998年(14勝)に左右の両輪として活躍した川上がこの年キャリアハイの17勝をあげてエースとしての道を歩み始めたのとは対照的に、野口の左腕は急速に輝きを失い、中日の真のエースがどちらかを議論する「野口、川上論争」も、この頃を境にパタリと聞かなくなった。

 

優し過ぎた男

 

 だがリアルタイムで当時を知る者として、ツボにはまった時の野口のエゲツなさは後世に語り継がねばなるまい。スリークォーター気味のフォームから繰り出されるスライダーのキレ味は間違いなく球界屈指。さらにスタミナも無尽蔵で、2001年にはシーズン5完封を記録したタフネスぶりも魅力だった。

 それでも本人は奢ることも飾ることもなく、高卒と同時に入寮した昇竜館からは強制退寮を命じられるまで延々10年近く居座り、質素な生活を続けた。趣味は水彩画で、休日には一人黙々と作業に励んだという。どんな好投を演じようともヒーローインタビューでは一貫して「中村さんのおかげです」と女房役を立てた。あまりにも生真面目すぎる性格を、山本昌が「正真正銘の不器用者」と称したこともある。今よりもずっと柄の悪かったプロ野球界にあって、野口という男はエースになるには優し過ぎたのかもしれない。

 

大野も心優しき男だが、性格は正反対だな

 

【参考資料】

「週刊ベースボールオンライン【人的補償物語02】」

https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20181222-14

「中日スポーツ」2004年3月28日付