ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

MENU

李鍾範、19年ぶり復帰!「あの骨折」の真実

www.chunichi.co.jp

 あの李鍾範が再び中日のユニフォームに袖を通すという電撃的なニュースは、驚きをもって迎えられた。すわ、息子・李政厚獲得の布石か⁉︎とにわかにファンが色めきだったのも束の間、記事によれば、日本でコーチ研修を積むために本人たっての希望で実現したのだという。

 ただでさえ日韓問題がぎくしゃくしている時節柄、LGのコーチ契約を打ち切ってまで自費での研修を申し出るとは、なんたる志の高さだろうか。与田監督は「われわれも教わることはたくさんある」と歓迎の意を示した。

 李が所属した当時からは考えられないほどの低迷に喘ぐドラゴンズ。「風の子供」が再び竜を救うべく、名古屋に還ってくる。

 

クレバーさと向上心を持つ男

 

 “韓国のイチロー”と呼ばれるスーパースター・李鍾範が中日にやって来たのは1998年のこと。前年、KBOで打率.324 30本 64盗塁という圧倒的な成績を叩き出した李は、当時中日新聞社主催で4年に一度行われていた日韓スーパーゲームでプレイした際に日本野球のレベルの高さに憧れを抱き、強く来日を希望していたという。

 中日としても移転初年度となった前年はナゴヤドームの広さに泣かされ、長年チームに尽力したパウエルを放出したばかり。ちょうどドーム野球に適応できる俊足巧打の外国人を探していたタイミングであり、李の存在はまさに渡りに船だった。

 そうと決まれば政治家・星野仙一の動きは早い。年が明けるのも待たず1997年12月4日に身分照会を済ませると同時に獲得を発表。韓国球界の至宝・宣銅烈が所属する強みを生かし、他球団が入り込む隙も与えぬ速攻で大型補強を実現した。その辣腕ぶりやおそるべしーー。

 ただ、周囲の過剰な期待とは裏腹に、李自身は冷静に自分の実力を分析していた。移籍決定時に韓国で開いた記者会見を振り返ろう。

ー日本でやる自信は?

「宣銅烈投手も最初の一年は苦労した。まずは、日本のプロ野球界に適応することが最優先」

ーイチローとよく比較されるが、打撃の目標は?

「来季はまず、2割7分ぐらいは打ちたい。(中略)来年は難しいが、日本の野球に適応さえできれば、イチローを超えることもできる」

1997年12月3日 記者会見より

 むやみに風呂敷を広げることなく、あくまで挑戦者としての謙虚さを感じさせる受け答えだ。李は、そういうクレバーさと向上心を持つ男だった。

 

歯車を狂わせた死球骨折

 

 1998年の夏は暑かった。とりわけ6月は、まだ体が暑さに慣れていない分、30度前後の気温が強烈に堪えた。聴いているだけで汗が吹き出そうになるT.M.Revolutionの新曲「HOT LIMIT」が音楽番組で流れまくっていたこの時期、李の野球人生はたった一球で大きく狂うことになる。

 6月23日の阪神戦。4回の第3打席で川尻哲郎の投球を右肘に受け、絶叫しながらうずくまる李の姿を見れば、ただ事でないのは中学校入りたての私にも分かった。「ゴンッ」という鉛がぶつかるような音がテレビ越しにもはっきりと聞こえた。李の右肘が全衝撃を吸収し、ボールはそのまま真下に落ちた。中日ファンになって初めて目にする主力選手の長期離脱の瞬間は、未だにトラウマとして記憶している。

 レントゲン検査の結果は、「右肘頭骨折」。全治2ヶ月強。この日まで全56試合に1番ショートでスタメン出場してきた不動のリードオフマンは、無念の離脱を余儀なくされた。

 実はこの死球には伏線があった。このシーズン、ここまで川尻には既に3敗を喫し、前回5月26日には星野監督の生まれ故郷である倉敷で屈辱のノーヒットノーランを献上。3試合で、わずか3点しか取れていなかった。今度こそはと並々ならぬ決意で長期ロードから帰名した竜ナインに対し、水谷実雄打撃コーチは天敵攻略に向けてある“秘策”を伝授した。

 「右打者は、みんな打席のベース寄り。前の方に立たせてみようかなと思っている。ゴメスが相手によって位置を変えたりしているが、それをチームとしてやるのも手なんだよ」

 内外角の揺さぶりを武器とする川尻に対し、死球覚悟でベースに寄ってプレッシャーをかけようというわけだ。

 「それでも内角にくるようなら、当たってもいいじゃないか。昔、広島も小野和幸(元中日)のスライダーが打てなかったんだが、その方法で攻略したことがあったんだよ」

 試合当日の中日スポーツの一面には「星野竜 天敵川尻攻略 秘策アリ」の大見出しと共に、奇しくも笑顔で搭乗ゲートに向かう李の写真が載った。翌日、自らに降りかかる運命など知る由もなくーー。

 

レジェンドになり得る選手だった

 

 この年の終盤になんとか復帰した李だったが、リストの強靭さで打棒を発揮していた選手にとって肘の骨折は致命的だった。守備の負担が軽減するセンターにコンバートされて迎えた翌シーズンは、ほぼレギュラーで完走するも打率.238 9本 24盗塁とチームの優勝に貢献したとは言いがたい成績に終わると、さらに翌2000年も113試合出場で打率.275 8本 11盗塁と不振から抜け出すことはできなかった。極度のストレスで円形脱毛症に悩まされたのもこの頃である。元来ストイックで真面目な男なのだ。

 結局、2001年途中に起用法への不満から退団。その後KBOに復帰し、再びかつての輝きを取り戻すわけだが、3年半の日本での挑戦は当初の期待値から見れば物足りないと言わざるを得ない結果に終わった。そのため日本でセーブ王にも輝いた宣銅烈に比べ、李はパッとしなかったという印象を持つ方も多いと思うが、あの骨折さえ無ければ日本でもレジェンド級の選手になっていた可能性は大いにあったと、私は考えている。

 あの試合までの李は、たしかに“韓国のイチロー”の呼び名にふさわしい活躍をみせていた。打率こそ.283とまずまずだが、56試合終了時点で9本 17盗塁は見事なもの。当時のシーズン136試合制に換算すると、20本40盗塁をクリアするペースである。来日初年度の韓国人選手がこの成績を残せば、相当なインパクトを与えたはずだ。

 不運な死球により李の日本挑戦は不完全燃焼に終わったが、怪我するまでの3ヶ月間に見せてくれた凄まじいまでの俊足と、天才を思わせるバットコントロールは今なお目に焼き付いている(盗塁を決めるたびにヘルメット側頭部に増えていった「忍者シール」も懐かしい)。その姿は紛うことなき“韓国のイチロー”だったと、あらためてここに記しておきたい。

 

 最後は半ば喧嘩別れのような形で退団した李が、あの李が、自らの意志で中日に戻ってきてくれるということが、信じられないと同時に嬉しくて仕方がない。契約期間は1年。二軍での指導がメインになる見込みだという。

 その尊き向上心で若竜たちを高みに導いてほしい。李鍾範なら、安心して任せられる。

 

【参考資料】

中日スポーツ 1997年12月4日付 1998年6月23日付 同24日付