京田陽太が入団4年目にして選手会長に就任することが分かった。これまでは30歳前後のいわゆる中堅といわれる年齢の選手が務めることが多く、25歳という若さでの就任は異例。それだけ主力としての自覚とリーダーシップの発揮が期待されている証でもある。
背番号1を付けて迎えた今季、京田は激しい逆境に晒され続けた。根尾昂との比較に始まり、屈辱の開幕スタメン落ち、さらに打撃不振によりチャンスで代打を出されることもしばしば。
しかし最大の持ち味である守備力の向上は著しく、少々の貧打は補って余りあるほどの華麗なプレーを幾度となく披露してくれた。決して判官贔屓ではなく、その巧さは他軍の将に「守備が堅いと思うのは中日のショート」と名指しで称賛されるほどである。
だが、それでもゴールデングラブ賞を獲り逃したのは、打率.249、40打点、17盗塁という、どこを取っても中途半端な打撃成績の印象が芳しくないからに他ならない。本人もそのあたりは十分承知しているようで、「(GG賞を獲るには)打てば良いんでしょ!」と半ば皮肉めいた発言まで飛び出している。
そんな折に訪れた選手会長という大役。“立場が人を変える”と言うように、これを機に来季こそは打撃でも満足な結果を残し、名実ともに竜の顔となることを期待したい。
選手会長列伝
各時代の主力選手が務めてきた選手会長。近年はそれといった活動がいまいち表立って見えてこないが、かつてはそれぞれの選手のキャラクターを生かした個性的な施策が話題を呼ぶこともあった。
あらためて2000年以降でも特にキャラが立っていた3人の選手会長の働きぶりを振り返ってみよう。
立浪和義('99〜'03年)
記録が残る過去35年間の選手会長のなかで最長の在任期間を務めたのが立浪和義である。
既に入団から10年以上が経ち、ベテランの域に差しかかった時点で就任した立浪は、チームを引き締めるために率先して“嫌われ役”を買って出た、まさにリーダーらしいリーダーだった。
就任2年目の2000年1月末、一部ベテランを除く56人が参加したキャンプ目前の合同自主トレで、立浪は円陣を組むと、ある命令を課した。「茶髪禁止。キャンプまでに黒くしろ」。
当時といえば染髪が大流行しており、野球界でも松坂大輔や中村紀洋など一流どころがこぞって明るい色に染めていた時代。その流れに逆行するような方針を敢えて打ち出したのは「優勝して浮かれていると思われたくない」という立浪のストイックな考えからだった。
この命令に肝を冷やしたのが2年目の福留孝介だ。目深に被りなおした帽子の下には、染めたばかりの金髪が隠されていたのだ。結局この日、福留はグラウンドで一度も帽子を脱ぐことなく、「キャンプまでには何とかしなくては」とばつが悪そうに話すのが精一杯だった。
井上一樹('06,'07年)
中日の選手会長と聞いて真っ先に浮かぶのが井上一樹という方も多いのではないだろうか。
35歳で選手会長に就任した井上は持ち前の明るさと社交性を前面に押し出し、数々の改革をおこなった。特にファンサービスには積極的で、今となっては当たり前の即席サイン会を他球団に先駆けて開催したり、野球教室にも積極的に参加。
さらに書道三段の腕前を生かし、各選手の特徴を捉えた漢字一字(井端弘和なら「技」、岩瀬仁紀なら「砦」といった具合に)を記した宣伝用ポスターは好評を博した。
森野将彦('10,'11年)
球団初の連覇を選手会長として牽引したのが森野将彦だ。
当時、リーマンショックの影響もあり勝てども勝てどもナゴヤドームの客入りが減る一方だったことに危機感をおぼえた森野は、球団営業部と連携して八代将軍・徳川吉宗ばりの「目安箱」をナゴヤドームのエントランス付近に設置。
しかし球場グルメの充実やトイレの増設など、ファンの声を直接取り入れようというアイデアは当初こそ好評だったものの、負けが込むにつれてストレスのはけ口と化してしまった。
終わってみれば「落合辞めろ」などファンサービスとは程遠い愚痴が殺到。目安箱はわずか1年限りで撤去されたのだった。
また森野はヒーローインタビューにも着目。他球団に比べて中日の選手は紋切り型の受け答えが多いと指摘し、もっと観客が盛り上がるように工夫すべしと訓示を垂れた。小田幸平から始まった「やりましたー!」の絶叫はまさにその成果といえるだろう。
京田の負担にならなければいいが……
いずれにしてもチームを良くしたい、ファンサービスを改善したいという選手側の熱意が伝わる施策である。
近年はチーム成績の低迷により他まで手が回らないこともあるのだろうが、上で紹介した3名のような働きがあまり伝わってこないのは寂しい限りだ。
選手会長の仕事が負担で成績を落とすのが一番怖いね
福田も初年度はホームランが減ったし、やっぱりそれなりに心労はあるんだろう
おいおい、京田で大丈夫か。田島じゃダメなのか
【参考資料】
中日スポーツ 2000年1月21日付