ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

MENU

豪州の野犬ディンゴ、日本見参

 今日からスタートしたプレミア12のスーパーラウンド。侍ジャパンの初戦の相手となるオーストラリア代表のベンチには見覚えのある顔が座っていた。

 デービット・ニルソン監督。古参の中日ファンなら忘れたくても忘れられない名前だろう。大柄な体格、穏やかな瞳は当時から変わらない。そう、この男こそ19年前、故国の野犬にちなんだ登録名で一世を風靡した、あの「ディンゴ」である。

 

五輪のために来日

 

 しばし思い出話にお付き合い頂こう。

 時は1999年冬。この年11年ぶりのリーグ優勝を果たした星野ドラゴンズだったが、連覇に向けてのチーム強化はことごとく失敗続きだった。ドラフト会議では1位で河内貴哉、2位で田中賢介をクジ引きで取り損ね、事前に「指名しない旨」を伝えていた東邦・朝倉健太を急遽指名するドタバタぶり。

 たった3人の指名でそそくさと会議をあとにした星野御一行はその足で緊急会議を開くと、新人選手の契約金等に充てるはずだった予算を全額FA資金に回すことを確認。このオフの目玉だった工藤公康、江藤智の両獲りへと舵を切ったのである。

 だがご存知の通り、結果は両獲りどころかどちらも巨人に持っていかれる始末。辣腕・星野にはめずらしく編成プランが思い通りに進まぬなかで、年が明けてすぐに星野自らが新大砲の獲得のためにアメリカへと飛び立った。

   キャンプインまで一ヶ月を切った段階での監督直々の渡米は異例中の異例。だが、この差し迫った状況で、星野はビッグな手土産を持ち帰る。なんとバリバリのメジャーリーガー・ニルソンとの契約を結んだというのだ

 日本に来るメジャーリーガーは「バリバリの」という冠が付いていても、大抵は盛りを過ぎたロートルであることがほとんどだ。しかしこのニルソンに関しては前年に.309、キャリアハイの21本を打ち、オールスターにも出場した正真正銘のガチもの。

 なぜこんな選手が好き好んで日本に来るのか。おいしい話には裏があるもの。実は超が付くほどの愛国者であるニルソンは、この年の夏に故郷シドニーで行われる五輪に出場するために異例の来日を決断したのだ。

 

この大会から五輪のルールが改正されてプロの参加が可能になった。
でもMLBは開催時期がシーズン終盤と被ることもあって、早くから派遣を認めない方針を固めてたんだ。

そこで中日は五輪参加を条件としてメジャーから引き抜いたわけだね。策士・星野は健在というわけだ

 

連日中スポ一面を飾るフィーバー

 

 1月15日付の中日スポーツ一面では「金(money)より金メダル」という見出しと共に「ニルソン獲得」の一報を伝える4日前の同紙を手に、満面の笑みを浮かべるニルソンの姿が掲載された。

 翌16日には登録名を母国の野犬にちなんで「ディンゴ」とすることを発表。17日には佐藤球団社長(当時)がはるばるシドニーまで出向いて入団会見を開くVIP待遇で、期待値は最高潮に達した。

 来日したのは2月5日。アマンダ夫人と共に名古屋に降り立ったディンゴは丸一日をナゴヤドーム見学と観光に費やし、2日後の7日にようやく沖縄キャンプに合流した。まさに異例ずくめの待遇である。

 一方、このフィーバーぶりに闘志を燃えたぎらせていたのが山崎武司だ。前年は9月26日の劇的なサヨナラ弾の印象こそあれど肝心の日本シリーズは骨折で欠場するなどシーズン全体でみれば不甲斐ない一年に終わった。今年こそはの思いを胸に、掲げた目標は40本塁打

 江藤獲りを狙い、ディンゴを獲得した球団側の動きに対して「2人ともオレと同じようなタイプだし、オレは信頼されてないってことでしょう。だったら一丁やるしかない」と目標を設定。大好きなゴルフを断ち、70万円もするBMW社製の高級自転車で体力を付けるなど並々ならぬ決意でキャンプに臨んだ。星野も「(ディンゴの加入で)刺激を受けているだろう」と目を細めると、「(ゴメスを含めた)3人で100発はいける」と大胆予言も飛び出した。

 

一、三塁、そして捕手の三刀流

 

 キャンプ、そしてオープン戦を迎えてもディンゴの評判は高まるばかりだった。初のフリー打撃では46スイング中、右方向へ8発。また外角球を左へ流し打つ巧打も見せた。

 3月18日のロッテとのオープン戦では“本職”の捕手でスタメン出場。初回、無死二塁で小坂誠の投捕間へのバントを素早い動きでボールを掴むと、矢のような送球で一塁アウトに仕留めた。

 星野はシーズンでの捕手起用を明言。「そうすれば中村(武志)も休める。中村も4月はいつもいい。休ませながら使っていけばまだまだ、十分やってくれるんだよ。4月は中村、5月はディンゴ、6月からまた中村…というふうにいくか」と大胆な起用プランをぶちあげた。これには中村もまんざらではない様子で「やれるなら僕も歓迎です。そうなれば僕は100試合先発マスクを目標にやりますよ。でもポジションを取られちゃかなわんけどね」とジョークを交えながら、長年マスクを被り続けてきたベテランの余裕をみせた。

 何をやっても首脳陣、評論家は手放しで大絶賛。だが木俣達彦氏だけは「あまりに鈍足。外野守備も心もとない」と不安を口にしていた。果たしてその不安はシーズンに入ると、現実のものになってしまうーー。

 

2000年オフ、星野独裁態勢に陰り

 

 誤算は2月の段階で起こっていた。五輪出場権を得るための来日だったはずが、MLBが方針転換し、マイナーリーガーに限っての五輪派遣を許可したのだ。ディンゴとしては寝耳に水だろう。わざわざメジャーを退団して縁もゆかりもない日本に来た意味は無いも同然。この時点でモチベーションが低下していた可能性は否定できない。

 またオープン戦では3割を超える打率を記録したものの、シーズンに入ると左投手の変化球攻めに苦心。期待されたホームランもわずか1本に終わり、捕手としての出場も4試合にとどまった。開幕前に星野が描いていた青写真はあらゆる面で砕け散った。

 にもかかわらず五輪では日本戦で黒木知宏からホームランを打つなど大活躍。全中日ファン、いや全プロ野球ファンの恨みを買ったのは有名な話だ。

 

 思えば来日前から一貫してディンゴは照準を五輪に絞っていた。中日はいわば腰掛け。星野もそれを承知の上で契約したはずだが、いくらなんでも考えが甘すぎた。そもそも夏場に合わせてコンディションを整える選手が、春先から活躍するわけがない。

 江藤獲りに失敗し、目ぼしい新外国人も見当たらない中での苦肉の策が不発に終わると、この年のオフには小山派の白井文吾が新オーナーに就任。ここから星野の独裁態勢に陰りが見え始め、翌年の怒涛の展開に繋がるわけだが、今になって思えばディンゴとはまさにその引きがねになった存在だったのかも知れない。

 もしディンゴが期待どおりの活躍をしていれば、あるいは中日も連覇を果たし、星野ドラゴンズも全く違う道を歩んだのかと思うと歴史のいたずらを感じずにはいられない。

 

 ところで開幕前まで40本を目標に掲げていた山崎はと言うと、.311をマークしたものの本塁打は過去5年で最低の18本に終わり、オフの契約更改で紛糾。こちらもその後の激動の野球人生においてターニングポイントとなる一年を過ごしたのだった。

 

【参考資料】

中日スポーツ 2000年1月11,12,15,16,18日付 2月6,7,8,9,14日付 3月19日付