ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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君は関川浩一を知っているか

●2-5(23勝31敗)

 

かつてドラゴンズには関川浩一という選手が在籍していた。ナゴヤドーム元年に最下位に沈んだ星野ドラゴンズはナゴヤ球場時代のような打ち勝つ野球から脱却し、機動力中心の野球に転換すべく1997年のオフに大豊泰昭、矢野燿大(現阪神監督)を放出。その代わりに阪神からドラゴンズにやって来たのが久慈照嘉と関川浩一だった……という経緯は当ブログの読者なら当たり前の知識であろう。

ただ、この関川が一時期、ドラゴンズで最も人気のある選手だったという事実は、当時を知らない若いファンの方が想像するにはちょっと難しいかもしれない。具体的には1998年から1999年にかけての約2年間。間違いなくあの頃、関川は立浪や山﨑を凌いで一番人気のある選手だった。

打席に立てば割れんばかりの歓声が起こり、代名詞であるヘッドスライディングには万雷の拍手が贈られた。今のように、ヘッドスライディングは怪我のリスクが高いとか、タイム的にも駆け抜ける方が速いなんて、まだ誰も指摘していなかった頃。星野監督が掲げる喧嘩野球を体現するかのようなガッツ溢れるプレーにファンは魅了され、酔いしれたのだった。

 

1999年の関川は神だった

 

特に1999年の関川は神がかっていた。主にリードオフマンとして全試合出場を果たし、キャリアハイの170安打を放ったこの年は打率も3割3分を記録。得点圏打率3割6分9厘を叩き出し、満塁に至っては9打数4安打、4割4分4厘という驚異の勝負強さを誇った。幾度となく殊勲打を放ち、チームをリーグ優勝に導いた立役者は、この年のMVPを選ぶ記者投票でも野口茂樹、上原浩治に次ぐ3位のポイント数を獲得した。

特徴的なヒゲ面と気合い満々のガッツポーズも相まって一躍“時の人”となった関川だったが、日本シリーズの第1戦で対戦したダイエーの工藤公康に打者としての弱点を暴かれ、翌年以降は成績も下降。2004年限りで7年間在籍したドラゴンズを離れて新興球団の楽天に移籍し、今日に至るまでドラゴンズとの直接の関わりは途切れている。だが当時を知るファンなら少なからず思い入れのある選手だと思うので、是非またドラゴンズのユニフォームに袖を通した姿を見てみたいと切に願っている。

 

そして今、ソフトバンクの監督が工藤で、工藤に選手人生を狂わされた関川が打撃コーチを担当しているのだから面白い話だ

 

工藤に狂わされたというより、ビールかけの時に何をトチ狂ったかトレードマークのヒゲを綺麗さっぱり剃り落としてきた時点で嫌な予感がしたんだ

 

遠藤、1メートルに泣く

 

工藤と関川。因縁の二人が同じユニフォームに袖を通し、ドラゴンズと対峙している。20年前の事を知るファンなら複雑な感情を抱かざるを得ないが、昨日、今日とドラゴンズの1番を当時の関川と同じ背番号23の遠藤一星が打っているのは単なる偶然だろうか。

遠藤が平田の代役を務めて早くも3週間が経つ。当初は力不足も甚だしいと思われた遠藤だが、ここまでなんとか3割をキープし、1番打者らしくファウルで粘るなど立派に代役を務めている。そんな遠藤にヒーローになるチャンスが訪れた。

9回表、土壇場の二死一、二塁。3点差という状況的にも今さら繋いでどうなるわけでもなく、期待されるのは同点ホームラン一発のみ。これしか無いという局面で森唯斗のウイニングショットを振り抜いた打球は、せり出したホームランテラスに向かって一直線に伸びて行く。伸びろ!伸びろ!だが無情にもあとひと伸び足りず、打球は福田秀平のグラブに収まりゲームセット。あと1メートル伸びていればーー。だがホームランの壁をいとも簡単に超すホークスの打者とは対照的に、ドラゴンズの打者はその1メートルがどうしても届かない。残念だが、これが今のドラゴンズの実力であり、ホークスとの絶望的な差なのだろう。

しかし遠藤の一打に確かなロマンを感じたのも事実で、この選手は平田が復帰してからも継続的に使えば案外化けるかもなと。そう思わせてくれただけで今日の敗戦の痛みも少しは和らいだ。そういえば関川が大活躍したのは今の遠藤と同じ30歳のシーズン。同じ背番号を持つリードオフマンが、やはり30歳にして工藤を前に苦杯をなめた。だが関川が20年前のあの試合を機に自信をへし折られたのに対し、遠藤は未来への希望を見せてくれた。

今日惜しくも届かなかった1メートルの距離を遠藤が乗り越えた時、ドラゴンズも長い長いトンネルから抜け出せるのかもしれない。燦爛と輝く一番星の伝説はまだ始まったばかりだ。