令和時代が幕を開けて早3週間。
前回「平成ドラゴンズ10大ニュース」の際に告知した平成回顧企画の第2弾がようやく完成した。
偉大なる中日ドラゴンズの動きをどのメディアよりも熱心に追いかけてきたのは言うまでもなく“大本営”こと中日スポーツだ。
あの名試合からファンも忘れ去ったような些細な出来事まで、中日スポーツのアーカイブにはどんなネットサイトよりも詳しく、正確に当時の出来事が記載されている。
そしてスポーツ新聞の“顔”とも言うべきは、大きくて派手な文字と、大きな写真が載る一面に他ならない。では毎日誰かが掲載されるこの一面、平成31年間で最もたくさん中日スポーツの一面に載ったのは一体誰なのだろうかという関心が私の中に沸々とわきあがり……、31年間11,069日分の一面を全部調べてみました。題して「平成中日スポーツ一面ランキング」!
おそらくまだ誰も試みたことがないこの挑戦。平成の中日スポーツを最も多く彩った人物とは果たしてーー!
20位からカウントダウン形式で発表してくぞ!それじゃあさっそく行ってみよー!
20位 野口茂樹 120回
最多一面掲載年度:1999年(22回)
1990年代後半からゼロ年代初頭にかけて大活躍、1999年には19勝をあげて優勝にも貢献したMVP左腕“のぐちん”こと野口茂樹が20位に登場だ。
1995年3月14日の一面初登場以来、2005年まで11年連続で一面登場。特にキャリアハイの1999年は勝ち星よりも多い22回に渡り一面を飾った。
愛媛県の無名校から叩き上げで球界のエースに上り詰めた野口だが、その人柄は朴訥そのもの。趣味の絵画の腕前はプロ級で個展を開いたこともある。
その野口の名を広く世に知らしめたのは1996年8月11日、巨人戦でのノーヒットノーランだ。しかし翌日は新聞休刊日で、あろうことかこの快挙は新聞で報じられることなく人々の記憶にのみ刻まれることになった。こういうところが実に野口らしい。
19位 和田一浩 122回
最多一面掲載年度:2010年(25回)
2008年に西武から移籍すると、2度のリーグ優勝に貢献するなど2015年の引退まで主軸として活躍。2000年代を代表する強打の名選手がこの順位というのは少し意外にも思うかもしれない。
それでもスターの証である年間20回以上の中スポ一面登場を2008、2010、2011年と3度記録しており、8年間という短い在籍年数を考えれば充分な回数と言えるだろう。
実はFA移籍が決まった当初、ファンは決して手放しで喜んだわけではなかった。衰えの兆しが見え始めた35歳という年齢に加えて、人的補償で超人気選手・岡本真也を手放すことになった為だ。なんと入団会見が行われた翌朝(12月10日付)も、一面は和田ではなく福留のメジャー移籍を伝える内容。
ところが和田は幼少期からの憧れのチームで第二の全盛期を迎え、2010年にはMVPを受賞。名実ともにドラゴンズのスターの仲間入りを果たしたのだった。
18位 イチロー 127回
最多一面掲載年度:2001年(38回)
平成最高のスーパースターはチームの垣根を、さらには海をも超えてこの順位にランクイン。特にメジャー初年度の2001年はドラゴンズが低迷したこともあり、なんと年間38回も一面を飾った。
そんなイチローが初めて中スポの一面に載ったのは1991年7月31日、愛工大名電高の鈴木一朗としてだった。ここから足かけ28年。2019年3月22日の引退まで127回も一面に登場。まさに平成を象徴する選手だった。
移籍以来、最後までメジャー現役を貫いたイチローだが、渡航してしばらくは日本復帰もほのめかしていた。2002年12月8日の中スポも「竜に関心」という大見出しでこの件を報じており、当時の中日監督がイチローと懇意にしている山田久志だったこともあり、まんざら夢物語ではないという雰囲気もあったのだ。
ところでこの紙面でイチローが絶賛したのが日米野球で対戦した川上憲伸。当時日本では珍しかったカットボールを駆使する川上に他のメジャーリーガー達も驚いたと言い、イチローも「川上のカッターは日本人のじゃない。普通にやれば(メジャーでも)勝ちますよ」とまで褒め称えたのである。
さすがイチロー。川上のメジャーでの大活躍をこの時から予見していたんだな
やめてさしあげろ
16位 高木守道 128回(同率)
最多一面掲載年度:2012年(37回)
平成時代に二度、監督としてユニフォームを着たミスタードラゴンズ・高木守道だが、新聞を売るには地味と判断されたのかこの順位に止まった。
それでも二次政権時は2年連続で30回以上一面を飾っており、平成に監督を務めた中で最も一面回数が少なかった森繁和監督(2017,2018年の2年間で合計18回)に比べれば遥かに多く紙面に登場した。
星野、落合という稀代の名将の後を任され、いつもあと一歩のところで優勝を逃す悲運の監督でもあった。
朴訥そうな見た目とは似つかず瞬間湯沸かし器的な側面を持つ高木は、ベンチで選手やコーチと言い争いになることもしばしば。2012年4月12日に言い放った「もう我慢できん!」はネタとして定着し、未だにネット上では主に早いイニングでの闇雲な選手交代に際して使用される。
16位 荒木雅博 128回(同率)
最多一面掲載年度:2011年(14回)
長きに渡りドラゴンズのリードオフマンを務めた荒木も一面登場は2011年の14回が最多で、トップ20にランクインした中では最少の数字でもある。
それでも2000年から2018年まで19年連続で一面に登場。その変遷は、まさにコツコツと積み重ねて2000安打を達成した“打者・荒木”そのものと言えよう。
落合政権以降は井端とセットで「アライバ」として一面に載ることも多かった。
2004年の春キャンプで落合ノックを受けて守備を上達させた荒木が翌年は自ら志願して更に激しいノックを受けることになった。以降、毎年北谷名物となったこのノックだが、後年落合は「俺の練習を逃げずにやり通したのは荒木、井端、森野だけ」と目を細めて振り返った。
15位 平田良介 135回
最多一面掲載年度:2015年(23回)
ここにきて初の現役選手がランクインだ。2010年を除いて入団から毎年一面に登場しており、2014年からは3年連続で20回以上を記録。名実ともに現ドラゴンズの顔といえる存在だ。
それだけにキャリアハイを残した2018年にわずか4回の一面掲載に止まったのは不思議である。まだ32歳という年齢的にも令和を振り返ったときにトップ20に入ってくる可能性は高い。
2011年6月5,6日には2試合連続のサヨナラ弾を放ち、華々しく一面を飾った。だがその裏で、ある名言が生まれていたことをご存知だろうか。
試合後、平田のサヨナラ弾について聞かれた落合監督は「平田?(ヒーローインタビューで)あれだけ喋ったんだから記事書けるだろ」と素っ気なく対応すると、二言目に「それより森野だよ、森野、もーりーの」とスランプの森野に名指しで言及。このあまりにも有名なフレーズが、平田の連続サヨナラ弾と同じ日に飛び出したことは意外と知られていない。
14位 森野将彦 137回
最多一面掲載年度:2009年(25回)
1996年の入団以降、最初の10年間で9回しか一面に登場しなかった「もーりーの」こと森野だが、そこから怒涛の追い上げでこの順位につけた。ドラゴンズの育成の気長さを象徴する選手であり、今でもファンは伸び悩む若手打者がいると「森野の例があるからまだ大丈夫」と自分に言い聞かせる。晩成型中距離打者の完成形で、高橋周平もこのタイプに落ち着くことを期待されている。
ちなみに1996年のドラフト前日には「やるからには自分の好きなチームで。それ以外ではやりたくない」と意中の中日を意識した発言をしている。その理由は「今年、山崎さんがホームラン王を取ったように、中日は打撃のチームという印象がある。自分に合ってる」とのこと。
え、でも翌年からナゴヤドームに移転じゃ……
世の中には知らない方がいいこともあるんだよ
2010年の序盤、森野のバットが打ち出の小槌になった。5月半ばを迎えても打率4割をキープし、200安打を超えるペースで打ちまくったのだ。本人曰く「本能で打ってます」。最終的には179安打に落ち着いたが、それでも2年連続フル試合出場で3割2分7厘、22本は立派な数字だ。遅咲きの天才が全盛を迎えた感があった。
それだけに翌年、違反球の導入により大きく数字を落としたのは残念だった。二度と3割も20発も打てないまま2017年限りで引退。ガッツ小笠原や和田ほどではないにせよ、間違いなく違反球の犠牲になった一人である。
13位 大豊泰昭 152回
最多一面掲載年度:1994年(38回)
豪放磊落な性格と親しみやすいキャラクターで人気を博した1990年代を代表するスラッガー。一本足打法を武器にホームランを打ちまくり、1994年にはホームラン王、1996年には山﨑武司、松井秀喜との熾烈な争いを繰り広げて惜しくも2位となるも38発を打った。
突然の阪神移籍、中日復帰、そして中華料理屋開業など怒涛の半生を送り、2015年1月18日に永眠。文字通り最期の中スポ一面を飾った。
大豊といえば王貞治を模した一本足打法が印象的だが、実はこれは1991年オフに試行錯誤の末に習得したもの。一年目の1989年にも札幌のヤクルト戦で実験的に挑戦するも、この試合3三振を喫し翌日には元のフォームに戻していた。
だがシーズン26本を記録したこの年のオフ、同僚・落合博満の「足を上げてみろ」の一言で一念発起。結果はすぐには出なかったが、頑なに一本足にこだわり続け、遂に1994年、38本を放ちホームラン王を獲得したのだった。
12位 吉見一起 155回
最多一面掲載年度:2012年(30回)
川上憲伸と入れ替わるようにドラゴンズのエースに君臨した稀代の鬼コントロールの持ち主。隔年でムラがあった川上とは違い安定感も抜群で、2008年から5年連続で二桁勝利を収めた。意外なのは、18勝をあげた2011年(21回)よりも翌年(30回) の方が一面掲載回数が多かったこと。
怪我さえなければ勝利数も一面回数も更に伸びたであろうから無念である。とは言え昨年も一面に10回登場しており、ここから山本昌路線に乗っかれば令和のトップ20入りも夢ではない。
2009年10月、吉見が渦中の人になった。CSファイナルステージ直前の20日、中スポが何の気なしに掲載した「吉見は疲労回復のためにニンニク注射を打っている」という記事の内容がドーピング違反にあたるのではないかと問題となり、NPBが調査に乗り出したのだ。
登板が予定される23日の第3戦を前に、出場停止や資格停止までもが囁かれた。だがそんな窮地に手を差し伸べたのは、意外にも敵軍の将・原辰徳だった。原は試合前のミーティングで「吉見の将来を潰してはいけない。ヤジることはするな。同じ野球人で仲間なんだ。正々堂々戦おう!」と呼びかけ。結局試合にも登板し、NPB裁定も「医者の許可が下りているので問題なし」という結果に落ち着いた。
余談だが、この騒動で評判を下げたのが巨人・伊原ヘッドだ。問題が発覚するや「出場辞退しろよ!のりピーと一緒だろ!」とわめき散らし、さらに原のヤジ禁止令について「どうやってヤジろうかと思ってたんだけど、監督がああ言うから仕方ないね」と悪びれる様子もなくクズっぷりを露呈したのだった。
11位 今中慎二 157回
最多一面掲載年度:1993年(27回)
「燃えよドラゴンズ’99」の名フレーズ『今でも今中愛してる』でお馴染みの天才エースがここに登場。ほぼ1990年代前半だけで一面を荒稼ぎした。
しかし怪我してからの1997年以降は投げるたびにノックアウトが続き、1998年4月22日には神宮球場で初回13失点の不名誉な日本記録も作ってしまった(今中の自責点は6)。
人呼んで“笑わん殿下”は引退会見にも表情を変えず淡々と応じたが、直後に出演したテレビ番組で流れたVTR、女房役・中村武志による惜別メッセージを見ると、遂に堪えきれずに涙を流したのだった。
線の細さと憮然とした表情、そしてその辿った運命から悲壮感あふれるガラスのエースとも言われる。短い実働年数で通算91勝をあげるも、今中を語る上で欠かせない試合といえば1993年7月6日、当時セリーグ記録の16奪三振を記録したヤクルト戦と、かの有名な1994年の10.8。どちらも負けた試合というのが実に今中らしい。
10位 岩瀬仁紀 164回
最多一面掲載年度:2010年(18回)
入団から15年連続50試合登板、通算1002試合登板という二つのアンタッチャブルレコードを築いた平成最高のリリーフ左腕も一面回数では10位どまり。なぜならクローザーは打たれるか、節目の記録を作るかでしか一面には登場せず、その意外な少なさこそが逆説的に岩瀬の偉大さを物語っているのだ。
それでもドラフト指名された1998年から今年3月のオープン戦の引退興行まで22年連続で一面を飾り続けた。
ちなみにキャリアハイの46セーブを記録した2005年は一面回数わずか4回(!)。衰えが見え始め、42セーブを収めながらも浅尾の介護を受けていると揶揄された2010年が最多の18回なのだから、やはりクローザーは数の少なさこそが栄誉なのだ。
9位 井端弘和 166回
最多一面掲載年度:2013年(27回)
16位の荒木と同じくコツコツ回数を積み重ねてのランクインだが、2013年にいきなり27回も一面に登場したのは3月のWBCでの大活躍で荒稼ぎをしたから。27回のうち13回をこの月だけでマークしたが、残念ながら怪我もありシーズンは振るわず。半年後の10月19日には退団が報道されるなどまさに激動の一年となった。
2008年12月22日、独身貴族の井端が突然婚約を発表した。お相手は当時「報道ステーション」のサブキャスターを務めていた河野明子。兼ねてから中日ファンを公言し、スタンドで観戦する様子も目撃されていた人気アナのハートを華麗なボールさばきでナイスキャッチした格好だ。
だが、この報道に穏やかでいられないのがレスリング代表の吉田沙保里だった。大の井端ファンで知られる吉田は北京五輪後に井端を焼肉デートに誘うなどプレーさながらの猛攻で外堀を固め、ゴールイン間近とも囁かれていたほど。それが突然のこの報道だから、さぞかしショックも大きかろう。
傷心の吉田はこのあと競技の鬼と化してレスリング道を邁進、2012年のロンドン五輪で3大会連続金メダル獲得の快挙を成し遂げるのであった。
8位 山﨑武司 182回
最多一面掲載年度:1998年(26回)
ダントツ1位かと思われた俺たちのヒーロー・山﨑武司がここで登場。あまりに意外な結果に数え直そうかとも思ったが、めんどくさいからやめた。
早くから期待されながらなかなか芽の出なかった山﨑がいきなり開花したのが1996年。ホームラン王にも輝いた山﨑はこの年、選手としては宣銅烈(31回)に次ぐ25回の一面を飾った。
だが、キャリアで最も多く一面に登場したのは意外にも1998年。特段目立った成績を残したわけでもないが、大豊が移籍し、福留が入団前という過渡期だったこともあり、なんとなく一面に座ることが多かったのだろう。たぶん。
そんな山﨑が本業よりも一足早くセリーグの表彰を受けたのが1990年。クリスマスも間近の12月19日、たまたま用事で訪れていた知人宅の隣家が火事となり、家の中から助けを求める子供の叫び声を聞くやいなや、知人と共に火の海に飛び込み、生後1ヶ月から2歳までの幼児3人を救助したのだ。
あと1分遅ければ助かる見込みは薄かったと言われる中での見事な救出劇。燃え盛る火の海に飛び込んだ勇敢な山﨑だが、一塁ゴロに飛び込んだ姿は誰も見たことがない。
7位 谷繁元信 243回
最多一面掲載年度:2015年(47回)
2001年11月。横浜の森祗晶監督と確執のあった谷繁は、残り2,3年のプロ野球人生を楽しんで終えるためにFAでの移籍を決意する。そこから14年間現役を続け、果てには監督にまでなってしまうのだから人生は分からない。
しかし47回も一面に載った2015年とは打って変わって監督専任となった2016年は登場頻度が一気に減り(18回)、8月9日には事実上の解任が発表された。長きに渡りチームに貢献した功労者だが、幕引きはあまりに呆気なかった。
衰えがみられる中村武志の後継者育成が急務だった中日は、2001年のドラフトでスカウトの推薦により1,2位に捕手を指名。しかし直後に山田新監督の強い希望で谷繁の移籍が決まり、早くも現場とフロントとの間に摩擦が生じた。そして十数年後、今度は谷繁自身がフロントとの軋轢の当事者になるのだった……。
6位 立浪和義 253回
最多一面掲載年度:2003年(32回)
竜のプリンスがこの位置で登場したことについては意外と思う方が多いだろう。私も今回の集計作業において一番驚いたのが立浪の予想外の少なさだった。
その変遷も興味深く、全盛期の20代は1991年の14回が最多。ところが選手会長に就任した2002年に18回を記録すると、2000安打を放った2003年にはキャリア最多の32回をマーク。どうやら立浪はチームリーダーとしての資質を名実ともに発揮するようになったキャリア後半からそのスター性が一段と増した選手だったようだ。
入団3年目の1990年に電撃結婚を発表。21歳のモテモテ男を射止めたのは、地元企業で総務として働くOLの池内智子さん。5歳年上の年上女房だ。出会いは1年目のオフ。招待された食事会にたまたま同僚らと共に出席していた後援会企業の社員だった智子さんに立浪が一目惚れ。
交際から1年以上が過ぎた1990年4月、甲子園での遠征先で「おめでた」を知らされ、ケジメをつけることを決意したという。
ネットで出てくる話とは随分違うように思えるが……
出どころ不明なネット情報と当時の中スポのどちらを信じるかはキミ次第だ
5位 川上憲伸 279回
最多一面掲載年度:2004年(34回)
平成最高のエースはとにかく華があった。ルーキーイヤーにいきなり33回も一面を飾ると、その後もメジャーへ旅立つまでの11年間で7度の年25回以上一面掲載を記録。2012年の復帰後も計21回登場し、6位立浪に差をつけた。
六大学で凌ぎを削った高橋由伸の存在、そして何より当時の星野監督の影響もあり巨人戦は気合の入り方が倍増しに。プロ初完封が1998年7月4日の巨人戦なら、2002年8月1日には首位を独走する巨人相手に東京ドームでノーヒットノーランを記録するなど、巨人戦での活躍が印象的な選手だった。
1998年1月1日、ルーキーとしては異例の抜擢で元日の一面に登場。それまで元日はその年の大型助っ人か、もしくは監督が登場するのが慣例だったが、並外れた期待値の高さが慣例をも打ち破った。
近年では当たり前となった若手の期待株による元日の一面は、川上が先駆者だったのだ。
4位 福留孝介 299回
最多一面掲載年度:2003年(43回)
中日生え抜き史上最強打者は一面回数も凄かった。チームが優勝を果たしたルーキーイヤーにいきなり選手としてはトップの35回一面を飾ると、その後も中日に在籍した9年間で6度の30回以上を記録。
福留が凄いのは、10年にも満たない在籍年数にも関わらずこの位置にランクインしたことだ。一面率でいえばダントツ。2003年には選手では唯一の年間40回以上一面掲載も達成した。
「遊撃でレギュラーを獲る!」と高らかに宣言した福留だったが、プロの壁は厚く苦戦を強いられた。シーズン後半には負担の少ないサードやレフトで出場するも、9月4日の広島戦では平凡なレフトフライを痛恨のサヨナラ落球。さすがの星野監督もおかんむりで、翌日から4試合スタメンから外れた。
それから3年後、本格的に外野に転向して球界を代表する名手として名を馳せるわけだが、決して最初から上手かったわけではなく、悔しい経験と不断の努力が福留を名手へと成長させたのである。
3位 山本昌 344回
最多一面掲載年度:1994年(29回)
プロ野球のあらゆる最年長記録を塗り替えたレジェンドは、やはり積み重ねがモノを言うこの企画でも強かった。平成元年から28年連続で一面に載り続け、年間10回以上を18度も記録。20回以上は5度と意外に少ないが、年間の勝ち星に近い10〜20回を安定して積み重ねての背番号によく似た通算344回だ。
2017年からは一度も登場していないので、ぜひ令和時代にも何らかの形で一面を飾ってほしいものだ。
山本昌といえば枕詞のように語られるのがスクリューボール。その習得経緯はファンなら知らぬ者はいないほどだが、1989年オフに二度目の渡米を強いられたことは意外と知られていないかもしれない。
投げても投げても勝てなかったこの年、ようやく完封で初勝利をあげたのが5月27日の巨人戦。心から安堵し、人目をはばからず号泣した。
しかしどうしても10勝目に手が届かず、星野監督は再び渡米を命令。このとき師・アイク生原氏に教わったスローカーブを武器に、翌年は初の二桁勝利を達成したのである。
2位 星野仙一 365回
最多一面掲載年度:1996年(57回)
球団史上、最強のカリスマが2位に登場。2001年限りでチームを去ったにも関わらずここにランクインしたのも凄いが、特に第二次政権時の一面頻度がすさまじい。なんと就任した1996年から、退任した2001年まで6年連続で年間最多一面を記録。この時期のドラゴンズには他にも人気選手がたくさんいたが、誰よりも監督こそが最強のスターだったということだ。
2018年1月に70歳の若さで逝去。今でも時折ふと星野がいない時代を生きていることに違和感を覚えることがある。そんな時は中スポアーカイブをめくり、在りし日の姿を見て懐かしさに浸りたい。
ドーム元年の1997年、元日の一面にはやはり星野がいた。見出しは『最下位覚悟で優勝狙う』。広いドーム球場に移転し、果たして自慢の強竜打線がこれまで通り機能するのかと当時から不安視されており、この紙面でも星野自身が「ナゴヤ球場時代にはごまかせていた走塁面と守備面の真の実力が明らかになるだろう」と危惧している。
しかし星野はまずは一年様子を見ることを選び、覚悟していた通りチームは最下位に沈んだ。ここで終わるのが並の監督。だが星野は馬力が違う。すぐさまコーチ陣を含めた大幅な血の入れ替えを敢行、わずか2年でリーグ優勝を成し遂げたのだった。
……というわけで、いよいよ最後の一人だ。星野仙一をも差し置いて、最も多く中スポ一面を飾った人物とは果たして……
もうお分かりだろう。平成時代の中日スポーツ一面最多登場は、この人物だ!
1位 落合博満 505回
最多一面掲載年度:2004年(66回)
圧倒的という言葉はこの男のためにあるのかもしれない。史上空前三度の三冠王を獲得した大打者は、中スポ一面レースでも選手(197回)、監督(294回)、GM(14回)と三度に渡って登場。2位の星野に大きく差を開けるぶっちぎりの強さをみせた。年間掲載数でも監督就任初年度の2004年に唯一無二の60回台を記録。
シーズン中はもとよりオフシーズンにも話題を集めるのが落合の特徴で、90年オフの年俸調停、93年オフのFA移籍では連日一面を賑わせた。
落合はメディア受けが悪い、記事にならないと散々言われているが、落合ほど積極的にメディアが飛びつく話題を提供し続け、新聞販売に貢献した人物はいないということが今回の調査によって明らかになった。
落合といえば揉めに揉める契約更改がオフの風物詩だった。3割2分1厘、40本、116打点という堂々たる成績で交渉に臨んだ1989年もやはり最初の提示を保留。年が明けて1月9日、伊藤球団代表が事前に「金額の上積みはない」と前回の提示額が上限であることを伝えたうえで行った二度目の交渉で、ようやくハンを押した。
更改後、会見場のテーブルにつくやいなや落合の口から出た言葉は「イチ、ロク、ゴ」。1億6千5百万円。プロ野球史上最高額であるのはもちろん、同年のプロスポーツ選手の所得暫定1位の競馬・武豊を再び抜き、その座に返り咲いた。
ちなみにこの時、落合家は名古屋に二軒目のマイホーム購入を計画。予算は3億円で、70歳までの34年ローンを組むことも決めていたそうだが、その後も増え続けた稼ぎからしてとっくの昔に返済ずみなのだろう。
あとがき
本来であれば平成のうちに更新したかったこの企画。しかし11,069日分の新聞を一枚ずつ確認するのは想像を遥かに上回る過酷な作業だった。数日で終わるだろうと高を括って始めたは良いが、朝から夕方までほぼ休みなしで作業しても1日で進む範囲はせいぜい3年分。仕事や育児もあるのでそう易々とは捗らず、気付けば改元の熱も冷めつつあるこんな時期まで延びてしまったことは大変な無念である。
だが作業自体は楽しくて仕方がなかった。何しろ大好きな中日ドラゴンズの近現代史を日めくりで追体験できるのだ。美化も補正もされていない、当時の熱気がそのまま真空パックされたような紙面。そこにはどんなにググッても見つけられない“忘れ去られた情報”が数多く記されていた。
この作業を通してあらためて実感したのは、中日ドラゴンズの歴史とは敗北の歴史(ペナントだけではなくFA戦線やドラフト逆指名争いを含む)であること。そしてほぼ毎日、ドラゴンズの話題が一面を飾る中日スポーツという新聞の存在そのものが、極めて特殊で、なおかつ貴重であるということだ。
他にこういう切り口で歴史を紐解けるのは阪神のデイリースポーツくらいのもの。新聞が斜陽産業と呼ばれて久しいが、令和の時代も中スポには中スポらしく、変わらぬスタンスを貫き通してもらいたい。
とにかく過酷だったが、間違いなく楽しい作業だった。そして願わくば「デイリースポーツ」の一面ランキングも見てみたいので、阪神ファンの方、ぜひ挑戦してみてください。
長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。