ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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Hello, Again

 転職で地元・愛知を離れ関東に移り住んで4年目。最後にナゴヤドームを訪れたのは2018年の10月。荒木雅博と岩瀬仁紀の引退試合の日だった。あれから4年、久々にドームへと足を運んだ。3試合連続の試合観戦は2008年9月14~16日以来14年ぶり、またカード3試合全て観戦するのは人生初となった。

 福留孝介の引退試合、小笠原慎之介のキャリアハイとなる9勝目、そして大野雄大と菅野智之のマッチアップの3連戦を見届け、埼玉県の自宅へと戻ってきた。充実感を遥かに凌駕する疲労感。その裏には壮絶なドラマがあった。

 

これはマズい

 9月18日の深夜5時前、38.2℃という数字を表示した体温計をテーブルに置き、しばらく天井を見上げていた。強烈な寒気と裏腹に上がり続ける体温はこの日の昼過ぎに38.9℃まで上昇。この時点では名古屋行きを断念していた。

 だが、この高熱はいわゆる「流行り病」とは違うもののように感じた。私自身6月末に感染し陽性反応が出たが、その時に感じた得体の知れない症状とは一線を画していたようだった。

 その直前の週に出張があり疲れていたこと、また台風接近の影響が出ていると思い、ひたすら横になっていた。解熱剤も効果を発揮し、平熱に戻すことにも成功した。あとは19日に発熱がなければ、扁桃腺炎による発熱だろうから、薬局で抗原検査キットを購入し自主検査を、そしてもし熱がぶり返すようであれば、内科で再びの抗原検査を受診しようと判断し、朝を待った。

 

熱は出なかった。しかし……

 朝、いつもの時間にいつものアラームで目が覚めた。体温を測る。熱はない。よし、大丈夫だ。脱衣所で歯磨きをしていたときに、最初の違和感を覚えた。

 

 歯磨き粉の味がしないーーー。

 

 そんなはずはない。そう思いながらも舌に乗っかる歯磨き粉からはミントのスーッとしたいつもの感じはあっても、歯磨き粉特有の味覚の代わりにあるのは舌の痺れのようなものだった。

 実際に舌の奥の方では感じることができた味覚。違和感はその後、目に見える形で出てくることとなった。

 

 ふと手の甲を見てみると赤いプツプツとしたものが両手に浮かび上がってきていた。次第にそれは10本の指をも侵食し、手のひらから手首へと伝播した。蕁麻疹だった。熱が引いたあとは皮膚にできた蕁麻疹。物心がついてから初めての出来事だった。

 結局3連休最終日も自分の身体と向き合うこととなり、あっけなく連休を終えてしまった。

 

 翌日、最低限の出勤時間で済ませると皮膚科で診療を受ける。ちなみに抗原検査の結果は陰性だった。血液検査のために採血し、蕁麻疹用の塗り薬を処方され、自宅へと戻った。手首までだった蕁麻疹がいよいよ腕、肘へと伸び、顔や足、腹部、背中にもでてくるようになっていた。

 水曜日には味覚が戻ってきたが、蕁麻疹は収まらない。そしてこのままではまた違う意味で名古屋行きを断念せざるを得なくなるかもしれない。そんな葛藤がまた心配材料となり、身体に影響していたかもしれない。

 

完全回復までは行かないまでも

 23日金曜午後、名古屋行きの新幹線に乗り込む。防止をかぶり手首にはサポーター、その上に手袋を着用し、極力肌を見せない姿で現地入りをした。

 このときには蕁麻疹のピークも過ぎていたが、完全になくなった訳ではない。それでも向かう先で待ち受ける、大きな大きな出来事を受け止める思いが足を向かわせていた。

 

 引退セレモニーそのものを振り返ることはしない。いや、できないと書いたほうが正しいか。当時の思考を言語化し、文章化するには相当な労力を必要とする。

 

 仲間と盃を交わしているとき、店の有線では我々の思いを代弁するかのような平成のヒットソングが流れていた。懐かしさに思わず口ずさんだとき、急に堪えられないものがこみ上げてきた。

 

 ❝記憶の中でずっと二人は生きて行ける❞ 君の声が今も胸に響くよ ~~~♪

 

 1995年、最初にドラフトで指名されたときの大ヒットソングだった。

 

yuya (@yuya51) | Twitter